『embrace and kiss』  (もぞ)

一番機の調整を終え、壬生屋はプレハブ小屋へと足を向ける。
ガラリと教室の戸を開けると、そこには思わぬ人物が窓越しに座っていた。

会話は、ない。

息を呑み、逃げるように、避けるように、壬生屋は自分の机へと向かう。
壬生屋はこの男――瀬戸口が苦手であった。
彼はいつも「決して許さない」という目で自分を見つめる。
理由も分からず、ただ理不尽で、突っかかった時期もあった。
泣いて抗議したことだってある。
しかし状況は好転せず、あろうことが壬生屋は悟ってしまったのだ。

それでも瀬戸口隆之という人を好いているかもしれない――

それからは逃げの一手であった。
苦手な男を好きになるなんて、こんな馬鹿なことがあっていいはずないのだと自分に言い聞かせたりもした。
好きだから彼を目で追ってしまい、そして目が合っては後悔するという日々に疲れ果て、ただひたすら避けて来たというのに…

よりによって教室で二人きりになるなんて。

息を詰めながら机まで辿り着くと、思いがけず瀬戸口が吹き出して笑った。
「呼吸くらいしろよ」
「こ、呼吸くらいしていますっ」
久々の会話がこれですか…と思う余裕もなく、壬生屋は反射的に瀬戸口を見た。
いつもとは違った優しい目がそこにある。いや、いつもと違う環境だから、そう感じるだけなのかもしれないと思い直した。
きっと瀬戸口は焦る自分がおかしくて笑っているのだと、そう思った。

「今、何時かな」
だから簡単な問いかけにも棘を持って返してしまう。
「時計が黒板の上にあるでしょう? ご自分で確認なさってはいかがですか」
「黒板の方、見るのイヤなんだ」
「………」
からかわれていると思いつつ、壬生屋は根負けして時計を見た。
「…あと5分で日にちが変わります」
「じゃあ、あと5分ここに居てよ」
「え?」
弾かれたように瀬戸口を見る。
彼はまだ自分を見つめていて、そしてその目はやっぱり優しい。
「明日は俺の誕生日なんだ、知ってた?」

「それは…」
おめでとうございます、と言いたいのに声が出ない。
瀬戸口はそんな彼女を見つめるばかり。
壬生屋にとって長い5分間が始まった。

会話は、ない。

目を逸らしても、瀬戸口が見つめてくるのが良く分かる。
心臓の音が自分の耳に響き渡る感覚…こんな経験をしたことは戦闘以外に今までなかった。
そっとまた瀬戸口を伺い見る。
彼の表情は、ただぼんやりと。
しかし決して視線を外すことなく自分を見つめている。
そして瀬戸口の視線に吸い寄せられるように壬生屋は近付いてしまった。

手と手が届く距離まで来たとき、瀬戸口は囁き声で「おいで…」と言った。
誘われるように残りの一歩を踏み出した。
互いの唇が軽く触れ、壬生屋は強く目を閉じた。
瀬戸口によってもたらされる初々しさの欠片もない貪るような口づけに、壬生屋は身をも固くする。
キスに応えることは出来ず。
かと言って逃げられるほどの経験値も持ち合わせてはいない。

怖い、でも、どうしようもなく…好きだと、思い知る。

感情は震え、涙が溢れる。
泣かせたことに満足したのか、瀬戸口はそのまま壬生屋をぎゅっと抱きしめた。
「逃げられたら追いたくなる」
脈絡のない瀬戸口の発言に、壬生屋は小首を傾げる。
「…っていう男の本能なんて…知るわけないよな」
どこか自嘲するような響きに、慌てて壬生屋は身を離す。
「お嬢さんを好きになってはいけないって俺は必死だったのに」
参ったな、と続ける瀬戸口の瞳もうっすらと濡れているのに壬生屋は気付いた。

「瀬戸口くん…」
名を呼べば、今度は彼が身を固くした。
「あの…お誕生日おめでとうございます…」
そっと抱きしめると瀬戸口が小さく笑う。
「誕生日は口実…だから、もう一回キスしても、いい?」
耳元で囁かれ、思わず恨めしそうに面をあげる。
「不潔です…」
「そういう俺が好きだろ?」
「…嫌いですっ…」

思わず強く返してしまう。
瀬戸口は今度は笑わずに壬生屋の髪を撫でながら問いかけた。
「だったら…どういう俺が好き…?」
その声は不安の色を帯びて壬生屋の耳に届く。
自分でも彼のどこが好きなのか分からない壬生屋は黙り込む。
「…壬生屋…?」
考えに考えても答えは出そうになく、意を決して瀬戸口を見つめる。
ゆっくりと自分の唇を瀬戸口のそれに軽く当て、囁いた。

「理屈ではなく、ただ好きだと言うだけでは、いけませんか…?」

瀬戸口は強く、強く壬生屋を抱きしめた。
息が詰まりそうなほどの強い力は、彼の想いの全てがこもっているようで、抵抗することなど出来なかった。
「…この世に生き続けて、良かったと思ったのは初めてだ…」
重みのある言葉に訳も分からず壬生屋は頷く。
「俺も…ただ…壬生屋未央を愛しているよ…」
温かい口調が壬生屋の心に降り注ぐ。

「…だから、もう一回…ね?」
悪戯っぽい問いかけに、ようやく二人の緊張が緩む。
恥じらいつつ微笑んで壬生屋はそっと目を閉じた――