(死にネタ)
どうせなら旨いのが欲しい。
選択基準はただそれだけだった。
血を求めずには生きてゆけない。
だが、想う女の死を見つめ続けるなど、不毛の限りだろう?
俺には旨い血を。
彼女たちには綺麗な思い出を。
それが俺の生き方だった。
これはそのための取引。
いい思いをするのはお互い様。
多少期待外れの味だろうと、最後の一滴まで残さず平らげることをせめてもの礼儀とはしていたが、それ以上の感情を、単なる糧に抱く必要などどこにも有りはしない。
だから、俺が彼女の血を求めたのも、それだけの理由だった。
彼女を見つけて以来、俺は彼女と過ごす時間を惜しみなく費やした。
一見、清楚で物静かな佇まいの、それは美しい女だったが、中身の方は他の美女たちとは随分毛色が異なっていて、それがまた興味をそそった。
彼女だけだった。
こんな風に思いも寄らぬ反応を見せた女は。
その鮮やかな裏切りの連続が俺の心を弾ませた。
それは、ただ大人しいだけの女にはない粋の良い血を。
ただ賢しげなだけの女にはないまろやかな血を予感させた。
ああ、この女の血はどれほど旨いのだろう?
俺はたびたび夢想に耽った。
彼女を知るほどにその期待は否が応にも高まってゆく。
筆舌し難い芳醇な血で、この喉をなめらかに潤してくれるに違いない。
今すぐにでもそれを堪能したかったが、しかし、こうして焦らされるのも、たまには悪くない。
この血は完璧な状況で頂かねば勿体ないだろう?
逢瀬を重ねるほどに、それが実現する時に近づける。
その瞬間を夢見ては、彼女と逢えるのが夜だけに限定されるのがもどかしくてならなかった。
だが、その一方で、彼女といると無性に苛立たしくもあった。
憎らしかったのだ。
彼女の物言いたげな、あの青く澄んだ眼が。
最初は嫉妬なのだろうと高を括っていた。
彼女と出逢った頃はまだ他の餌探しも同時に行っていた。
あの眼はそんな俺に対する無言の抗議なのだと思った。
今までなら煩わしく感じているところだったが、彼女に嫉妬心を抱かせたことに俺はささやかな優越感のようなものすら覚えていた。
焦がれる想いは、その胸の高鳴りとともに血の中にめぐる。
それは血に更なる深みをもたらすに違いない。
彼女は俺を求め、そうして味を増す血を俺は求めた。
そんな募りゆく彼女の血への想いに、これを食す前に、他につまみ食いをするような卑しい行為は慎むことにし、以来、俺は珍しく、ただひとり彼女だけを見つめて過ごすことを誓ったのだ。
だが、それでも、彼女の眼に変わるところはなかった。
時折、非難がましい視線を投げかける、あの青い眼。
それは可愛い嫉妬などというものを通り越していた。
それはまるで俺を責める眼。
俺の存在そのものを否定するかのような眼だった。
それほど俺が許せないのか?
それほど俺の存在は忌まわしいのか?
彼女の中に伝わるという古き宿命が俺の正体を嗅ぎ分けたのかもしれない。
その疑惑に警戒したが、しかし、一向に彼女は俺を消そうとはしなかった。
不思議だった。
気付いているのなら、何故、彼女は俺と時を過ごそうとするのだろう。
本能で勘付くことは出来ても、それ以上の力には不足しているのか?
俺にはその理由が解らなかった。
しかし、それは取るに足らぬ些細なこと。
頬を染めるあの表情の奥に、どのような思惑が隠されていようとも、俺の身に害が及ばないのなら、わざわざ気に留める必要などない。
血の味以外に餌のことで深く考えるのは俺の流儀に反する。
俺の見せ掛けに騙された愚かしくも可愛らしい女。
そう思っておけばいいのだ。
だが、その眼に、慈愛のような色をも滲ませているのが、どうにも気に食わなかった。
俺を憐れんでいるのか?
そうやって、俺を受け入れようとでもいうのか?
穢れを知らない高潔さが酷く目障りだった。
いっそ、今すぐ殺してしまいたいと思えるほど疎ましかった。
俺はこれまで誰にも抱いたことないほどの憎悪も彼女には感じていた。
それほどの憎しみを抱えながら、それでも、俺は他の誰かに彼女を渡したくはなかった。
同族は言うに及ばず、自分以外の者なら、たとえ人間の男であっても。
何しろ、処女の血の味は格別なのだ。
彼女の貞操にはさして興味はないが、他の男に汚され、その血の価値を貶められるなど我慢ならない。
考えてもみろ。
他の男に抱かれ、その腕の中で、彼女はどんな顔を見せると思う?
熱を帯びて乱れてゆく呼吸、恥じらいながらも堪え切れず洩らす嬌声、苦痛に歪む顔、青い瞳から流れる涙――
それをみすみす他の男にくれてやることなど出来るものか。
それは俺のもの。魔王にすら譲れない。
俺がその血を堪能する瞬間、彼女はどんな顔をするのだろう?
どんな声で啼いてくれるのだろう?
これほどに美しい彼女のこと。何もかもがこの上なく綺麗に違いない。
それは、素晴らしくその血の薫りを引き立ててくれることを俺に確信させてくれた。
そうやって、身も心も一片の穢れを知らぬ彼女の清らかさは、俺の心を憎悪でかき乱すと同時に、かつてないほどの憧憬を抱かせた。
そこに疼くようなものを感じながら、俺は手練手管で彼女の懐へと着実に忍び込んだ。
彼女の身に伝わる古き使命を完全に忘れさせるためにも。
俺は人間とは違う。
彼女の見事な肉体そのものには欲情などしない。
俺が欲しいのは、ただ、そのきめ細かな白磁のような肌の下に流れる紅い血だけ。
求めるそれを得るために、血の誘惑、眼差しへの殺意を呑み込み、俺は彼女の身を優しく腕に抱き寄せる。
そして、血の色を連想させる柔らかな唇を割り、口内を探って感嘆した。
体液すら、これほどに美味なものだとは。
さらりとした口当たりの後には可憐な花の蜜のような薫りが優しく広がった。
そのまま本命の味を味わいたい衝動を鉄の意志で押し殺し、代わりに俺は、食前酒とばかりに彼女の唾液を存分に呷った。
しかし、その薫りに中てられるほどに、彼女の血を求め騒ぐ心は、それは御し難いものとなるのだった。
何故、こんな辛苦に耐えねばならないのか。
憎しみも、飢餓も、焦燥も。
これほどの苦しみを未だかつて経験したことはなかった。
気が狂いそうになりながら、それでも俺は彼女の血に惹かれて止まなかった。
自分でも驚くほど忍耐強く我慢出来るのも、総てはこの稀有な血のため。
どれほど心身を苛まれようとも、あの血の匂いが俺の心を和らげてくれた。
あと少し。あと少しなのだ。
総てが整う日はそう遠くない。
旨いものが欲しいのだろう?
食べ頃も見極めず、目の前の餌に有り付くなど低劣ではないか。
そんなことは俺の矜持が許さない。
それに、あの眼差しさえ向けられなければ、彼女は眺めているだけでも、俺をこの上なく愉快な気分にさせてくれた。
彼女が微笑むごとに、その血はえも言われぬ芳気を放つのだから。
これは、この血を味わい尽くすための試練。
そう思えばこそ、俺はその時が来るのを、胸を躍らせながら、ひたすら辛抱して待つことが出来た。
そして、ついに念願叶って、その恋焦がれた血を堪能する時を得た。
波打つ豊かな黒髪の隙間から誘うように覗く彼女の細い首筋に、俺は逸る気持ちを抑えるべく、殊更ゆっくりと牙を立てた。
適度に張りのある、しなやかな肉からは思った通り――いや、それ以上の血の味がして、眩暈すら覚えた。
瑞々しいのに、若い娘にありがちな軽すぎるところがまるでなかった。
舞うように軽やかで、それでいて、どこまでも俺を誘い込むような深い味わいだった。
血を啜るたびに、肉が収縮して柔らかく牙に絡みついた。
形の良い顎から細い首筋へと涙が伝い、どこか艶めくような喘ぎが耳元をくすぐるように掠めた。
彼女が息を乱すほど、その薫りは甘やかさを増し、鼻腔から全身を一気に突き抜けた。
恍惚に打ち震え、俺は一心に彼女の血を求め続けた。
面倒がらずにきちんと手順を踏んだ甲斐もあったというものだ。
これほどの血を味わったことはなかった。
これ以上の血は、この先、もう味わえないだろうと思えるほどに旨かった。
これこそ、千年かけて探し求めてきたものだった。
初めてなのに、どこか懐かしい気がするのは、そのせいかもしれない。
これほどまでに俺を虜にした甘美な血は他になかった。
叶うことならば、この血だけを永遠に味わっていたいくらいに。
その申し分のない血が己の中に満たされてゆくことに、俺の全身全霊が無上の歓喜に酔い痴れるようだった。
俺が彼女の血を求めたのは、旨そうだったから。
ただ、それだけだった。
――それだけのはずだった。
「心を潤せたらいいのに」
虫の息で囁いた彼女の最期の言葉に、俺は愕然とした。
俺が今、食したのは何だ?
これは俺の主食のはずだった。
生きるために俺は彼女のその血を欲した。
そして、それはかくも素晴らしき味だった。
単に喉を潤わせる程度のものなどではなかった。
比類なきその血は、限界にまで飢渇した俺を瞬く間に満たすものだった。
それにも関わらず。
彼女の血は俺の心を潤してはくれなかった。
彼女の血が、俺の心をより渇かした。
欲しかったのは、生きるための糧。
それさえ補給出来るのなら、それ以外のものは必要とはせずにいた。
腹さえ膨れればそれで良かった。
欲しいのは、ただ、生きてゆけるだけの餌だったのだから。
彼女の血は、これ以上なく、その望みを叶えてくれた。
この先、千年はこの血だけでも、この身を生かすには十分というほど完璧に。
だが、彼女のいない世界に永らえる意味など何も見出せはしなかった。
彼女の存在にこそ、俺の心は満たされていたのだ。
彼女のその言葉に、この心は二度と潤うことなどないと知った。
――自分でも、それが狡いことだというのは百も承知だった。
それでも彼女の言葉に縋らずにはいられなかった。
彼女を殺めたのは他ならぬこの俺だったが、その業を背負って、この先、果てしのない空ろなる永遠を彷徨って生きてゆくことなど耐えられそうにもなかった。
もう、潤すくらいでは足りはしない。
この心の総てを彼女のことだけで満たし、その中に溺れてしまいたかった。
こうして、俺は彼女の骸を腕に抱きながら、夜が明けたら、陽の射す世界へ発つことを決めた。
あれほど怖れていた朝が今は堪らなく待ち遠しく思えた。
最初で最後の陽の光はどれほど明るいのだろう?
暗い世界しか知らない俺には、それは想像もつかぬものだ。
解ることは、それは己の身を焼き滅ぼすということ。
だが、それこそが希望への道標。
この身と引き換えに、見つめる光の向こうに彼女がいるのだから。
もうすぐ、光に満ちあふれた時を迎えるのだと、白み始めた東の空に俺は目を細めた。
人間が太陽を希う理由も少し解った気がした。
きっと、それは希望にあふれた輝く世界の象徴なのだろう。
闇の世界にはない、新しい始まりに満ちた世界。
今なら俺にも、そここそが美しい世界なのだと素直に思えた。
初めて見る明るい世界の先に、微笑む彼女の姿を思い浮かべ、俺は眩いばかりの光射す世界へとその足を踏み出した。