『渇望』  (にら)

(死にネタ)

渇きに重たい瞼を開ける。

身を起こしかけ、片腕がないことに気付いた。
重く垂れ込める雲の合間から差し込む、薄青の淡い月の光に目を細める。
隆起したアスファルトを支えにずり上がると、辺りがようやく見渡せた。

周りには様々な残骸が散らばっていた。
ヒトだったものの萎んだ塊はそのうち風に流れるだろうが、地面に残る血や肉片の染みはきっとこれからしばらくは消えない。

こんな風景を何度見ただろう。

金臭い灰に煙る空気を吸い込み、瀬戸口は軽く咳き込んだ。
こみあげるものを堪え、砂と血の味が混じる痰を吐く。
地面の白い液体と混じったそれは、奇妙な渦を巻いて濁った。

足はどうやら無事らしい。
吹き飛んだ腕の断面は「幸いにも」焼け焦げて、血の流出を抑えている。

とんだ悪運だ。

瀬戸口はうっすらと口の端に笑みを浮かべた。

これならまだ生きられる。
そんな甲斐も自分にはありはしないのに、この上にまだ肉体は本能のままに生きることを望むのか。

喉をひりつかせる圧倒的な渇き。

欲しているのは水でも血でも、肉でもない。

だから、この状況は都合がいい。

求めるものが目の前に無いのなら、死ぬしかないだろう、なあ?

死ぬ瞬間までこの飢えに苦しめられるのが、自分には似合いというものだ。

浮かぶのはただひとり。かけがえのないひとのこと。

彼女の終わりはもう覚えていない。

会いたい。
最後まで触れることさえ叶わなかった彼女にもう一度会って、この腕に抱き締めて・・・

――どうして、ひとりで逝かせてしまったのだろう。

「ご無事ですか?!」

耳を打つ声に瀬戸口は顔を上げた。
霞む視界に女の姿がある。

「今、そちらに行きますから」

駆け寄る足音に目を閉じて、瀬戸口はくつくつと喉を鳴らして笑う。

「最後の最後で・・・。
これも定めというのなら、世界も相当な物好きということだな」

今度こそはさすがに自分の方が先だろうと思っていたのに。

成す術もなく彼女の死を見送ったあの日からずっと捕らわれ、最後の時を繰り返す。
「何回目」からか、終らせるのはこの手の役目になっていた。

そして――、自分は何度死んでも気付けば同じ場所に立っているのだ。
他は全てが同じように再生されているというのに、なぜ自分だけが満たされる事のない飢えを抱えてこの世界を巡るのだろう。

瀬戸口は目を開け、ゆっくりと立ち上がった。

「瀬戸口さん、動かないで」

確かに彼女と同じ、顔と声で。名を呼ぶ声の懐かしさに渇きは増すばかりだ。

残っている方の腕で女を招く。

彼女もこんな風に暖かかったのだろうか。

「腕が!早く手当てを・・・」

息を呑む女の唇を塞ぐ。

互いのかさついたそれの不快さも、表面上だけならすぐに潤すことができるけれど。

喉の奥でくぐもる息。舌は麻痺して味などは感じない。

そのまま爪の先を薄く肉を覆う皮膚に滑らせると、赤い筋がほどなく浮かび上がる。
腕の中の肢体がびくりと震えた。

場所を確めるように何度も首元をなぞって、彼女が目を閉じるように瞼に口付けた。

青い瞳で自分を映すのは世界にひとりしかいらない。

「瀬戸口さ、ん・・・」

その名を呼ぶな。

同じように、その名を呼ぶな。

細い首に手を掛ける。力を込めれば、それは容易く血と泡を吹き出す。
そんなことももう数え切れないほど繰り返した。

壊れた時計のように巻き戻る世界に捕らわれ、自分だけがここにいる。

ぱつりと手の中で砕ける音がする。
見開かれた瞳から光が失われ、そこから漏れ出た血が涙のように頬を流れて温く手を濡らした。

フラッシュバックする光景。
爆発と轟音の中、荼毘にふされることもなく、ただ髪の一筋さえ残すことなく、あまりにもあっけなく逝ってしまったひと。

こうして彼女の体を確めることができていたら、せめて生きていた証でもこの手に残されていたなら、こんな埋められない渇きに狂うこともなかったのだろうか。

焼け付く喉の渇き。
永遠に求めているのは、水でもなく血でもなく、肉でもない。

ああ、そうか。そうではない。ただ、自分がやり直しを求めているのだ。

彼女に会いたい。

―――そして、世界はまた巻き戻る。