『Uncontrollable love』  (もぞ)


冷たくなった指先に息をかけ、壬生屋はそっと教室の引き戸に手を当てる。
心静かに、音をたてないように。
それだけを考えながら、ゆるゆると戸を開けた。
つま先立ちで自分の席まで移動すると、小さく息を吐いて後ろを振り返る。

教室の隅に丸まっている一つの影。
それは「クラスメイト」と呼ぶには違和感がある、瀬戸口隆之の姿があった。
いつもは意地悪な色しか帯びないその目も口も、今は堅く閉じられている。
壬生屋は小さく「おはようございます」と囁いて、彼の顔を優しく見つめた。

今は朝の6時。
始業開始までおよそ3時間。
彼は、その時が来るまで教室で眠っている。

壬生屋はいつもの光景から目をはなすと手早く鞄から教則本を取り出し、机の中にしまいこむと「よしっ」と小さく呟いて、再びつま先立ちで入り口へと歩みをすすめる。
瀬戸口が目覚める始業の時間まで、校舎の周りを清掃するのが彼女の日課となっていた。
会話が出来なくても、彼が自分を見てくれなくても、それでも良かった。
瀬戸口の顔を見る自由を、今の自分は持てるのだから。
「さて、今日も頑張らなくては」
凛とした顔を前に向け、壬生屋は教室の外へ足を向けた。


それはまだ、壬生屋が制服で登校していたときのこと。
胴衣に着替えようとブラウスを脱ぎ去った彼女と、寝ぼけまなこの瀬戸口が出くわしたのは、春3月のことだった。

あの時の彼は今思い返しても紳士であったと、そう思う。
目を閉じたまま「すまない」と詫び、着替えを目にした償いをしたいと申し出て、一言も壬生屋のことを責めたりはしなかった。
いつもの瀬戸口とはあまりにも違いすぎて、咄嗟に返す言葉が思い浮かばないほどだった。

その時に知ったのだ。
彼が一人きりの家に帰りたくないこと。
教室ならばぎりぎりまで誰かと一緒にいられると考えて、しばしばここを寝床にしていること。

――着替えを見られたのは事故のようなものだったと分かっている。
実のところ、瀬戸口が嫌味を言ったら反撃してやらなくてはという気持ちが壬生屋にはあった。
だいたい「お互い様」の事情があっても、いつもの彼ならば意地悪く彼女を責め立てていたのだから。

それがまさかの全面降伏とは。

思えば、彼が悪者になってくれたおかげで、壬生屋は恥ずかしい気持ちにならずにすんだのだ。
その後、舞の根回しで胴衣での登校が許されるようになるまで、瀬戸口は教室で寝るようなことはなかった。
そして。
再び教室で夜を過ごすようになった今も、一目で存在を分かって貰えるように机の間ではなく後ろの壁にもたれ掛かるようにして眠っている。

本当の彼は優しくて気配りが出来る人間だ。
それが分かっているからこそ、いや、それを分かってしまったからこそ。
…彼の理不尽な態度を受け入れてしまっている…それが良いことだとは思ってないのに…
壬生屋は誰に伝えるでもない言葉を飲み込んで、箒を手にした。


あの日はシオネの夢を見て、瀬戸口は深い哀しみの中にいた。

豊かな黒髪、夏空のように澄んだ青い瞳。
手を伸ばせば触れられる距離に、あの時の姿のままで愛しい人が立っている。
「私はここにいるわ」とシオネに微笑まれて、彼女がここにいないと知っている瀬戸口は涙を流した。
そうだな、貴女は俺の胸の中に――
哀しみに打ちひしがれて半身を起こすと、目の前には息をのむほどに素晴らしい黒髪があった。
だから夢見心地のままじっと見つめてしまった。
まさか壬生屋が着替え中とは思わずに。

青い瞳が驚きのあまり見開かれていくのを目にして初めて、瀬戸口は自分の置かれた立場に気がついた。
これは夢ではない。
華奢な白い肌が桜色に染まっていくのを「美しい」などと思っている場合ではなかった。
不埒な考えから逃れるように真っ先に頭も下げたし、持てるスキルの全てを使って彼女が傷つかないように振る舞った。
いつもなら成立させる気すらない会話も頑張って続けたし、彼女の「振り向いてください」という不可解な言葉にも従った。
……そう、振り向いたのが良くなかったのだ。
胴衣を着て誇らしげに背を伸ばした壬生屋は、今まで見せたことのない晴れやかな顔で瀬戸口に微笑みかけていた。

それは手を伸ばせば触れられる距離に。

振り向いた瞬間に瀬戸口は「シオネ」の姿を壬生屋に重ね、その名を決して口にするまいと強靱な意思でねじ伏せて、ただ逃げた。
よもや二人を二度も見間違うとは、これ以上の罪がこの世に存在するとは思えないほどの大失態である。

あの日以来、何かが狂った。
誰もを優しく包み込むその声は、ただ壬生屋に対してのみ剥き出しの本音と傷つけるための嫌味しか出てこない。
それで良いだなんて思ったこともないというのに、いざ彼女を目の前にすると何もかもが酷い方向へと転がってしまう。
あの日、身の丈に合わないことをしたばかりに。
美しい声に従ってしまったばかりに。
無駄に彼女を泣かせてしまう。
だから。
今日も瀬戸口は眠ったふりで壬生屋の背中を見送った。
「おはよう、お嬢さん…」
意気地なしの声が2月の教室に低く響く。


今日は校舎の修理をするという。
「教室、ハンガー、小隊室に分かれて、各自上手くやってくれ、解散!」
大雑把すぎる本田の指示に戸惑いながらも、皆、ゆるゆると動き出す。
善行が舞を捕まえて戦況談義を始めたあたりから、それとなくグループも出来上がり、賑やかな雰囲気になってきた。
教室を見渡すと、すでに壬生屋の姿はここにはない。
瀬戸口は思わず窓の外を見た。
いない。
教室を出たばかりだと気がついて入り口の引き戸を開けると、すでに階下に降りていた壬生屋が若宮に話しかけられているところであった。
「ちょっとどいて」
エセ関西弁の声が瀬戸口の背中をつつく。
人好きのする笑顔を見せながら振り返ると、不機嫌な顔の加藤にため息をつかれた。
「邪魔になっとるよグッチ。ウチ、早ぅなっちゃんトコ行きたいんで、どいてくれませんか?」
「おやおや、随分と不景気そうな顔してるねぇ」
「女の敵が通路塞いとったら、そらこんな顔にもなるわ」
「俺はいつでも加藤の味方だけどな」
「ウチは未央ちゃんの味方や」
加藤が指さす方向に目を移す。
おどけるような若宮の身振りに、優しく壬生屋が微笑んでいる。
瀬戸口はそれを目に映し、再び動きを止めて黙り込んでしまった。
「…なぁ、気になるなら追いかけたらええやん」
「はっ、誰が」
「違うなら別にえぇけどな。とにかくどいて。なっちゃんに置いてかれてしまうわ」
「加藤は素直だな、羨ましいよ」
皮肉とも本心とも取れる口ぶりに加藤は眉をひそめる。
「…素直とか、そんなんと違うよ。必死なだけ」
「一生懸命なんだな、可愛いね」
「褒めても何も出ぇへんよ? ウチはなっちゃん一筋なんやから」
「愛のお裾分けくらいしてくれても罰は当たらないだろう?」
「愛ならほかの人に貰えばええやん。アンタにならそういう相手…たくさんおるんやろ?」
「ははっ、分かってるじゃないか。この俺が愛の伝道師であることを認めてくれたというわけだ」
いつもどおりの甘くふざけた口調。
表情は分からないが、きっと笑っているのだろう。
「あー…はいはい。認めてるから愛の伝道師さん、そこどいてどいて」
瀬戸口に合わせるように軽い口調で彼の脇をすり抜ける。
加藤は廊下に躍り出ると、見られているとも気付かずに若宮と話し込む親友の姿を見た。
あの穏やかで自然な笑顔を、瀬戸口は今どんな気持ちで見つめているのか。
おそらくは彼の沈黙の中に答えがあるのだろうと加藤は思った。


「実はアイツも未央ちゃんのこと好きだったりして」

そう口パクで呟いた加藤に、壬生屋は首をブンブンと横に振った。
この恋の密談は、たまに新井木に邪魔されながら定期的に行われている恒例行事であり、食堂の隅っこにシートを広げ二人寄り添うようにしてお弁当を食べているだけの会でもある。

「残念ですが、それだけはないです。今日もお話出来ておりませんし…」
「それは未央ちゃんが声掛けないからやと思うけど…」
午前中の瀬戸口の様子を思い浮かべながら、加藤は神妙な顔つきでそう言った。
いつになく真面目な雰囲気を醸し出す親友の姿を目の当たりにして、壬生屋は居心地が悪そうにボソボソと呟く。
「…声を掛ける勇気なんて、あるわけないじゃないですか…」
「………」
ため息混じりに首を縦に振ることで同調した加藤は、それでも瀬戸口の悪口を言うまいとサンドイッチで口を塞いだ。
親友の沈黙に壬生屋は小首を傾げ、そして「あっ」と思い出したように語り出す。
「でも、私、実は毎朝、おはようって声、かけてますよ」
「………はいっ!?」
想定外の壬生屋の言葉に、食堂に響き渡るほどの声で加藤は問い返した。
一斉に視線を集める中、壬生屋はしどろもどろになって腰を浮かせた。
「こ、声が大きいですよっ…も、もっと…その、静かに…」
見つめる群衆に対してなだめるように愛想笑いを浮かべると、すぐに加藤の方を向いて困ったという表情をした。
「え、あ、ごめん…え、でも、毎朝挨拶してるとか、随分と仲良しになってると思うんやけど…」
「そうですわね…これにはもう一つ秘密があって…」
思わせぶりに壬生屋は微笑んで、加藤の耳元に口を寄せて呟いた。
「瀬戸口くんは眠ってらっしゃるんですけどね」
その姿があまりに滑稽で、でも可愛らしくて、思わず加藤は背後の壁にもたれかかった。
この子はもう、どうしてこんなに――いやでも、ツッコミを忘れたら加藤の名折れ。
「寝てる相手に声かけるとか…虚しいわ」
いつも通りを装って、加藤は壬生屋の弁当箱から卵焼きを奪い取ると、ひょいっと口に運ぶ。
こうしたやりとりが嬉しいのか、話の内容の割にはとても良い顔で二人は笑った。
「挨拶に虚しいとか虚しくないとかはないんですよ。それに…」
「それに?」
いたずらっぽく微笑むと、壬生屋はもう一度、加藤の耳元に頬を寄せる。
「眠ってくれていないと、私、挨拶どころか顔を見ることも出来ないと思いますし」
「そんなに苦手な相手が好きだとか、難儀すぎるわ未央ちゃん…」
加藤のほっぺがぷぅっとふくれる。
「アイツ、ほんまに寝とるんかなぁ…実は起きてて寝たふりしとったりして」
「…そうだとしたら、私今頃、ものすごく嫌味言われてるような気がしますけど…」
「まぁ、そうやなぁ、アイツ、未央ちゃんにだけは口を開くとロクな事言わんしなぁ。寝たふりやとしても黙っとるだけマシってことかなぁ…」
そう。瀬戸口の本心が、沈黙の中にあるのだとしたら。
「ふふっ、私だけって、何だか特別扱いですわね、自惚れちゃいそうです」
ふくれたほっぺを人差し指で突っつきながら壬生屋は珍しく冗談を交えて笑う。
それはいじらしい強がりにも見えて、加藤は少し悲しくなった。
だから、わざと明るく、こう言うことにした。

「特別ってことに間違いはないって、この加藤情報サービスが太鼓判押させてもらいますぅ!」


校舎の修理もあらかた終わり、皆は教室でまったりと会話をしている。
瀬戸口は空寝をしながら、ぼんやりとシオネのことを考えていた。

シオネ・アラダ。
俺の、俺だけの愛しい女神。
死を前にしても狼狽えることなく運命を受け入れた高潔な人。
一年前。
彼女に思いを馳せるたびに、いつも涙がこぼれていた。
今は。
――今は。

ふと、聞こえるはずの声がないことに気がついて、瀬戸口は身を起こす。
ぐるりと見渡しても、胴衣を身にまとう少女の姿がない。
そういえば若宮の姿も教室にはない。
心に黒いシミが広がるような感覚を抱えたまま、再び瀬戸口は机に顔を突っ伏した。

「どうしたの?」
不穏な空気を感じ取ったののみが駆け寄ってきた。
「いや…」
上手く笑いかけようとして、この子には小細工がきかないことを思いだして黙り込む。
「たかちゃん、めーなきもちが、いっぱいだよ?」
「あぁ…そうだな…どうしてだろうな」
「うーんとね…えっとね、それは、たかちゃんも分かってるのよ」
この子との語らいは、遠い昔を思い出させる。
シオネは、まだ心が幼かった異形の瀬戸口に優しく語りかけてくれていた。
それは、そう、まるで――
「ののみは、きっと、素敵なお母さんになれるぞ」
思わずついて出た言葉に息を呑む。
「えへへ、でもざんねん、ののみは大人になれないんだよ」
悲しい事実を話すののみに、しかし怒りの色は見えなかった。
デリカシーのない瀬戸口の言葉さえも、ののみは全て受け入れてくれるのだ。

そう、それはまるで母のように。
――愛しいシオネは、瀬戸口にとっては、まるで母のようであったのだ。

しばし呆然としながら、瀬戸口はじっとののみを見つめた。
壬生屋と出会ってから長く認めることの出来なかった気持ちの正体を、ついに自分は掴んでしまった。
いや、その気持ちの正体など、最初っから分かっていたことだったのに、そのことに背を向けて彼女をひたすら傷つけた。
…そのことにようやく気がついて言葉をなくす。
ののみは小さく頷きながら、瀬戸口を見つめ返している。。
泣きたくなる気持ちを抑えつけ、彼は優しく微笑んだ。
「ののみは大人だよ、そして、俺の天使さ」
「うわぁ、じゃあ、天使さんがぎゅーしてあげるね!」
ののみは瀬戸口の頭を、その小さな両の手で抱きしめた。
どっちが年上かわからないよね、というよく知った声が耳に届く。
瀬戸口の不安な気持ちを包み込むように、ののみは明るい声でこう言った。
「たかちゃん、だいじょうぶなのよ。はっきりとことばにできなくても、大切なことはきっともう分かってるの」

千年の昔に交わした約束は「また逢いましょう」ということだけだったのを、瀬戸口はようやく思い出していた。
また逢ってどうしたかったのか。
――次こそはシオネを殺させたりしないのだと、彼女を守れるくらい強い男になってやるのだと、そう思っていただけなのに。
あの時のシオネへの思慕が、いつの間にか恋慕へとすり替わってしまったのだ。
気がついてしまえば、これからどうすべきなのかは一つしかない。
ののみの頭を優しくなでると、瀬戸口は立ち上がった。


指先に「はぁっ」と息をあてながら、壬生屋は一番機の調整に勤しんでいた。
暗く落ち込みがちな心は、加藤との会話を思い出すだけで温かくなれた。
「持つべきものは親友ですね」
機嫌良く士魂号に話しかける。
「持つべきものは恋人じゃないの?」
返答を期待していなかった壬生屋は息を呑んだ。
士魂号がしゃべるはずはない。
機材調整のパネルに映る人影の正体が誰なのか気がついて、思わず壬生屋は身を固くした。
「…あなたの場合は、そうなんでしょうね」
戸惑いを隠して、慎重に彼女は言葉を返す。

「なぁ、壬生屋」
心を振るわせるような声が耳に届く。
返事をしたくなくても、無視することが出来ないこの声を、壬生屋は卑怯だと思った。
「なんでしょう」
「こっち向いてくれないかな」
「嫌です」
「若宮とは目を合わせて話するのにな」
心臓に杭を打たれるような感覚が胸に広がる。
冷たい声色は、彼女の心拍数を跳ね上げるのに効果的だった。

卑怯者――目を合わせないのは私じゃなくてあなたの方でしょうに。
だが反発する心は、悲しいかな、瀬戸口の顔を見るとすぐに吹き飛んでしまう。
自分の心を守るためにも、振り返るわけにはいかなかった。
「忙しいんです、目を離せないのです。見ればわかるでしょう?」
我ながら尖った声だと思う。
今度は彼の反発を招くであろうことが簡単に想像できて、壬生屋は泣きたくなってきた。
だが、罵声の代わりに瀬戸口がもたらしたものは別のものだった。

瞬時には分からなかった。
首筋から背中一面が、ただ熱かった。
パネルに伸ばされた指先は、大きくて温かい手のひらに覆われている。
その手のひらに支えられて自分の人差し指が器用にパネルのボタンを押していくのを、壬生屋は無言で眺めていた。
「よし、と。これでお終いだ。さあ、こっちを向けよ」
瀬戸口が不機嫌なのは声からして明らかだ。
なのに背後から抱きしめられているのはどうしてなのか。
「ななっ、な、なっ…」
突然、混乱の中に叩き落とされた壬生屋は振り払うことも忘れて、感情の波にただ溺れる。
「な、な、な、何て破廉恥なっ! 不潔ですっ、不潔ですっ、不潔ですっ!」
「なにが…」
「私があなたを好きだからって、何でも許されると思っているなら大間違いですっ! 離しなさいっ、不潔ですっ!」
「おい、落ち着けって…」
「これが落ち着いていられますかっ!? 破廉恥ですっ、あんまりですっ!」
叫ぶ壬生屋に根負けしたのか、瀬戸口はゆっくりと身体を離す。
ようやく願いが聞き届けられた壬生屋は、両手で顔を覆ってその場にうずくまった。

これまでは放置されるだけだったのに。
お前の心はいらないと、拒否されるだけだったのに。
恋心を利用されてしまった。
背中が耐え難いほどに寒かった。
これまで受けた仕打ちの中でも、最悪の部類に入ると壬生屋は思った。

「じゃあ、そういうわけなんで」
ハンガーに瀬戸口の声が大きく響く。
その彼にひょいと担ぎ上げられた壬生屋は「どういうわけなんですか」と言いかけて、思わず目を見張った。
二人を遠巻きにするようにギャラリーがこちらを見ている。
原が、田代が、新井木が、にやにやしながら親指を立てている。
ほかの整備班のメンバーも「気にしていない」というフリすらせずに二人に視線を浴びせている。
「…こ、これは…」
「だから落ち着けって言っただろうに…声が大きいんだよ、お嬢さん」
壬生屋に小さく話しかけると、ギャラリーの間を縫うように瀬戸口は彼女を抱えて歩き出した。
頭がぼんやりとする。
今は耐え難いほどに顔が熱い。
――これまで受けた仕打ちの中でも、最悪の部類に入ると壬生屋は思った。


会議室のドアを後ろ手で閉める。
椅子に座っている壬生屋は、茫然自失を絵に描いたような状態であった。
無理もない。
自業自得とはいえ、小隊内に恋愛ゴシップのネタを提供してしまった。
いや、自業自得というよりは、瀬戸口のスキンシップが招いた結果ではあるのだが…
「いつまでそんな態度でいるつもりだよ、傷つくなぁ」
ぼそっと呟くと、壬生屋の両肩がワナワナと震えるのが目に入った。
「一体何なのですか…私をからかって楽しんでいるのでしょうか…」
「まさか!」と即座に否定して、壬生屋の椅子の下に跪いた。
「あれは壬生屋が俺の方を見なかったから…」
「私があなたを見なかったという理由だけで、あなたは後ろから破廉恥にも抱きついたってわけなのですか?」
「あぁ、なんだ、ちゃんと分かってるんじゃないか」

明るく答えた瞬間に、瀬戸口は頬をギュッとつねられた。
「痛い、痛いって…」
「嘘おっしゃい、平気なクセに」
「………ま、良いもんだよな、たしかに」
青い目を潤ませて赤くなっている彼女の顔を目の当たりにするのも悪くない。
壬生屋は瀬戸口が何を言っているのか分からないといった風に首を横に振ると、彼の頬から手を離した。

「瀬戸口くん、お話が、あったのではないですか?」
静かに問いかける。
ようやく自分を取り戻しつつあるのか、壬生屋の口調が淡々としたものへと変わっている。
理不尽な攻撃から身を守ろうとして無言を貫くときのいつもの表情が、彼女の顔に戻って来た。
…そうさせているのが自分自身であることを、今も昔も瀬戸口は知っている。
壬生屋にこんな顔をさせたいわけじゃないというのに。
気持ちを分かって貰える術が分からない。
「…謝ろうと思って」
勇気を振り絞って口を開く。
上手く喋れていないのが自分でもよく分かる。
壬生屋の警戒心が一気に高まるのを、瀬戸口は感じた。
「何を謝ると言うのですか? 何か気が咎めることでもあったんですか?」
「だから…今までのことを…」
「何故? 何を今更、謝ることがあるんですか?」
「…好きなんだ」
「そう、そうでしたわね。好きな人がいるんでしたね」
「違うんだ」
「私が瀬戸口くんの好きな人に似ているから…」
「聞いて、壬生屋…」
「だから私のことが、嫌いなんでしょう?」
無慈悲な判決文を読むように、壬生屋の声が冷たく響く。
何を言っても「言い訳」だとみなされ反論される。
取り付く島もないとはこのことなのか。
彼女の瞳は何も映してはいなかった。

だが、瀬戸口は黙り込むわけにはいかなかった。
彼女の心を殺してしまったのは他でもない自分だけれど。
だからこそ、それを取り戻すのも自分でなくてはならなかった。
言い訳をしたいわけじゃない。彼女に伝えたい気持ちがここにあるのだ。

「未央」

名前を呼ぶと、瀬戸口は彼女の手を握りしめた。
怯えたように手を離そうとする壬生屋の顔を必死で見つめる。
思えば、こんなに間近で目を合わせたのは、あの日以来のことだった。

「…未央」

もう一度、名前を呼んだ。
青い瞳が左右に揺れる。

「未央……俺は未央が好きなんだ」

握りしめた手の上に、涙がポタポタとこぼれ落ちた。
それがどちらのものなのか、二人にも分からないことだった。


冷たくなった指先に息をかけ、壬生屋はそっと教室の引き戸に手を当てる。
心静かに、音をたてないように。
それだけを考えながら、ゆるゆると戸を開けた。
つま先立ちで自分の席まで移動すると、小さく息を吐いて後ろを振り返る。

教室の隅に丸まっている一つの影。
それは「クラスメイト」と呼ぶには違和感がある、瀬戸口隆之の姿があった。
いままでは見つめるだけで満足していた壬生屋であったが、彼女はもう一度深呼吸をすると再びつま先立ちで彼の元へと近付いた。

今は朝の6時。
始業開始までおよそ3時間。
いつもの彼は、その時が来るまで教室で眠っている。

壬生屋は彼の近くに膝をつき、そっと水筒を置いた。
中には温かいお茶が入っている。
季節はまだ2月。
教室は凍えるように寒かった。

瀬戸口が目覚める始業の時間まで、校舎の周りを清掃するのが彼女の日課となっていた。
「さて、今日も頑張らなくては」
凛とした顔を前に向け立ち上がろうとしたその瞬間、温かいものが手首に触れた。
「………」
驚いて振り返る。
触れていたのは瀬戸口の大きな手。
紫の瞳が優しい色でこちらを見つめている。
「す、すみません、起こしてしまって…」
「…ずっと起きてた」
「もしかして、眠っていないんですか?」
「そういう意味じゃないよ。毎日、未央のこと寝たふりして待っていたのさ」
加藤が予想した通りの告白に、壬生屋は思わず微笑んだ。
誰よりも彼のことを知っているつもりで、私は何も分かっていなかった。

昨日。
なぜ瀬戸口が全面降伏したのか、壬生屋には理由がよく分からない。
ただ、名前を呼ばれ、好きだと言われたそのことが、彼女にとっての全てであった。
「あの、温かいお茶を持ってきたので、よろしければ」
「…俺は、抱きしめあった方が温かくなれるんだけどな…ダメ?」
触れられた手首がジンジンと疼き始める。
「駄目です、えぇ、駄目ですよ?」
口では冷静に返答できるのに、身体がまったく動かない。
心臓が飛び出してしまうのではないかと不安になるくらい、激しい動悸に襲われる。

瀬戸口は半身を起こして、壬生屋の顔をのぞき込んだ。
触れられたらドキドキしていることを悟られてしまうのに、それでも壬生屋は動けなかった。
「………ダメだ、降参。俺が我慢できない」
甘く切ない声で敗北を宣言した瀬戸口は、強く壬生屋を抱きしめた。
「おはよう、お嬢さん」
ただの挨拶にしてはひどく艶のある低音が耳に届く。
「おはようございます…」
反射的に呟く壬生屋が可愛くて、瀬戸口はその頬に口を寄せた。