放課後。
壬生屋はまだ教室に戻ってこない。
もやもやとする気持ちを抱えて、瀬戸口は屋上へを足を向けた。
曇天のなか、強い風が吹きすさぶ。
凍えるような寒さが、だが今は心地良い。
自分から壬生屋に会いに行く勇気はなかった。
彼女が追いかけてきてくれれば、と思う自分が不甲斐ない。
追いかけてくれるはずもないのだ。
今日の諍いも、きっかけすら思い出せないほど些細な理由で。
泣かせて、怒らせて、最後には言い合いも面倒になって放り出した。
「すぐにそうやって逃げるのですね!」
という挑発のセリフも聞き流し、無視を決めこんだのが昼休み。
喧嘩にすらならないことを悟った壬生屋が教室を出て行って、もう4時間は経っている。
瀬戸口は膝を両手で抱え込み下を向く。
ほんの少し前までは、シオネが自分の全てであったのに。
今となっては、彼女を思い出すときでさえ、赤いリボンが目に浮かぶ。
愛しい人と似た姿で、だけれども何もかもが違う壬生屋のことが許せなかった。
わかっている。
子供じみた八つ当たりだ。
そう、イヤというほど、わかっているのだ。
壬生屋のことが嫌いならば、お得意の嘘で気持ちよく退場してもらえば良いだけの話。
それをわざわざ感情的になって意地悪をするなんて、子供が好きな相手にするそれと一体何が違うのか。
「………歪んでるな」
壬生屋を傷付けることは、本意じゃないのだ。
「どうしてこんなに………」
だが、呟きは最後まで言い切ることが出来なかった。
それを口にしてしまえば、きっともう、取り返しがつかなくなる。
「…そうさ、俺は壬生屋を許せないんだ…」
だから、これは愛などではないのだと自分に言い聞かせ、瀬戸口は目を閉じた。
花を散らす強い風が、彼の体温を奪っていく。
弱い人間の身体が徐々に機能を停止する。
このまま全てを手放してしまえたら。
そうしたら、もう、壬生屋を泣かせずにすむのだろうか。
そこまで考えたとき、足もとに温かい物体がぶつかってきた。
「ニャー」
物理法則に従って瀬戸口は屋根の上に押し倒される。
「ニャーアニャー」
グイグイと身体を預けてくるブータを押しのける気力はなかった。
「…何なんだよ…」
温かさを取り戻し、次第にハッキリと醒めていく思考が呪わしい。
「放って置けよ…頼むよ…」
「そんなこと、出来るわけがありません」
「………」
反射的に目を開ける。
「この子が知らせてくれなければ、あなた、病気になるところでしたよ、感謝なさい」
毛布を抱えた壬生屋の姿が目に映る。
灰色の空とは対照的な青い瞳。
風にたなびく豊かな黒髪。
壬生屋の表情は強張っている。
あぁ、と小さく瀬戸口は呻いた。
こんな顔をさせたいわけではなかった。
いや、こんな表情になるのは寒さのせいであるのだと、瀬戸口は信じたかった。
そうでなければ、壬生屋が自分の元に来てくれる奇跡が起こるはずなどないのだから。
気の利いたことを言おうとして、しかしそれは出来なかった。
壬生屋を目の前にすると、肝心なときに限って瀬戸口の言葉は不自由になってしまう。
だが沈黙は耐えられない。
必死になって伝えたいことを考える。
「………」
喉がヒュウと音を立てる。
声にならなくても、祈るような気持ちで口を動かした。
――お願いだから、俺を許して。
愛が許すことだというならば。
どうか、壬生屋を許せない俺を許して、どうか、どうか――
音にならない声が、もちろん彼女の耳には届かないのは百も承知で。
それでも伝わらない想いがもどかしくて、己の身勝手さに瀬戸口は哀しく笑った。
「…あぁ…寒いな…」
その声に弾かれたように、壬生屋が彼の横に跪く。
持っていた毛布を瀬戸口の肩口にかけると、ブータを抱いて彼の太腿の上にのせた。
「ニャア」
と一鳴きするブータの頭に掌をおいて、彼女は優しく穏やかに微笑んだ。
「大きい猫さん、意地っ張りな瀬戸口くんを、温めてあげてくださいね」
「ブミャー」
「言葉使いは悪いけれど、この人はきっと他の誰かと触れ合うことに臆病なだけなの」
それは穏やかな口調で。
許されたような気にもなって、瀬戸口は半身を起こす。
強い風に煽られて、彼女の黒髪が頬をくすぐるようにまとわりついた。
髪を撫でたいという欲求は、ブータの存在もあって心の奥底に押し込めた。
瀬戸口の心情など知るよしもない壬生屋は、相変わらず笑みを絶やさずにブータを見ている。
「猫さん、この駄々っ子が動けるようになったら、仕事するよう追い立ててくださいね」
「ニャニャー」
「おい、おっさん…」
「ブミャーア」
「ふふっ、約束ですよ?」
壬生屋は強風にふらつきながらも立ち上がる。
静かな足音は、階段のところでピタリと止まった。
「…瀬戸口くん」
小さな小さな声は、しかし、真っ直ぐに彼の耳元へ届く。
聞き漏らすまいと顔を上げると、凍えるような寒さだというのに首筋から耳元まで赤く染めた壬生屋の横顔が目に入った。
「私、許していますから」
「は?」
「お願いされるまでもなく、あなたのお子様すぎる態度については、いつも許していますからね」
キッパリと言い切ると彼女の姿はすぐに階下に消え、取り残された瀬戸口とブータは顔を見合わせた。
「………なぁ、おっさん、これってさ、伝わったんだよな………」
「ニャーン」
「おい、なんで猫のフリしてんだよ!」
「理不尽なヤツめ…仕方なかろう、猫なのじゃから、ニャーア」
ブータのほっぺたをつねり上げながら瀬戸口は声をたてて笑った。
シオネへの想いも、壬生屋への気持ちも、何も折り合いなどついてはいないけれど。
それでも、他ならぬ壬生屋に受け入れて貰えたそのことが、今の瀬戸口には、ただひたすらに嬉しかった。