『melting』  (サホ)

彼女の“カダヤ”になって初めてのバレンタインデー。
とはいえ、イベント事とは疎遠がちに育ってきた彼女のこと。
それを知らずとも、何ら不思議はなかったが、
速水はその知識を少女に植えつけるようなことは敢えてしなかった。

というのも、第一に、親切すぎるくらいの仲間たちに、
その情報を過剰なほど吹き込まれる可能性が非常に高い。
第二に、知らないなら知らないで、それでもいいと思えたからだ。

誰よりも、何よりも、綺麗な少女。
少年の感覚からすれば、人類の規格外“絢爛舞踏”になることよりも、
芝村舞の“カダヤ”に選ばれることの方が遥かに難しいことのように思われた。
何せ、彼女が自分を傍においてくれるだけでも、
分不相応なほどの夢心地な気分になれたくらいだったのだから、
彼女に想われているという事実は、それはもう何物にも勝る歓びを少年にもたらした。

そんな幸せな日々は、毎日が特別な日といえた。
そこへ、こちらから、わざわざ催促してまで何かしてもらうう必要などないのではないか。
何しろ、相手は、色恋沙汰においては普段の自信に満ち溢れた態度が
嘘のように消えてなくなってしまう少女なのだ。
そんな状態の彼女の言動を眺めるのは無論彼も好きだったが、
冬という何かとイベントの重なったこの時期、それは既に充足されている。
そこへまた無用な緊張感で彼女を悩ませるのは、苦行を強いるようで可哀想な気もした。
舞が自発的に何かを用意してくれるというのなら、話は別だが、
そうでないのなら、彼女を気疲れから解放してやるべきなのかもしれないと、彼はそう考えた。
取り立てて、この日、何もせずとも、ただ二人で一緒に過ごせるのならそれだけで良かった。
どうしてもバレンタインらしく何か祝いたくなれば、また別の年にすれば良い。
彼女が望んでさえくれるのなら、この命がある限り、彼女とともにあることを誓っているのだから。

そうして、当日がやってきた。

速水からバレンタインについての話題に触れることは当然なかったのだが、
いつもより、やや疲れた風に見えなくもないが、それでも、これまでの行事の時ほど、
舞の表情に動揺の色は窺えなかった。

ひょっとすると、世間一般では、そう大騒ぎする行事ではないのかもしれない。
舞に比べたら自分の方がよほど一般常識に恵まれていると思っているのだが、
しかし、そうはいっても、自分も特殊な生い立ち。
バレンタインデーの情報は有していたが、それは決して実体験に基づくものではない。
人類側の圧倒的有利とはいえ、今は仮にも戦時下なのだ。
何でも盛大に祝いがちな小隊は例外的存在だったのかもしれないと、彼が考えるのも自然なことだった。

そのまま刻一刻とこの日が過ぎていった。
唯一、変わったことといえば、彼女から夕食の誘いを受けたことくらいだった。
だが、それも最近ではそう珍しいことではなかった。
手作り弁当のお陰で、彼女の料理の腕も僅かながらに日々進歩し、
そのうち、負けず嫌いの彼女は鍛錬と称して、たまに夕食も振舞ってくれるようになっていたからだ。

(……やっぱり、舞には、今日という日に特別、意味はないんだろうな)

ごはんに、野菜と肉の炒め物、わかめと豆腐の味噌汁、ぬか漬け――
イベント日らしからぬ献立に彩られた食卓を見て、彼はそう思った。

派手さはないが、しかし、最初の頃に比べたら、味つけは格段に上がっていた。
野菜の大きさはご愛嬌だが、焦げはほとんど見当たらない。
味噌は壬生屋家の自家製味噌を、ぬか床は原特製のものをお裾分けしてもらったものだが、
だしの入ってない味噌汁を作るようなことは今はもうなかったし、
ぬか漬けも、原の味から彼女の味へと徐々に変化しつつあるが、それもなかなか美味かった。
だが、最近の彼女なら、重要なイベントなのだと知っていたなら、
もう少し手の凝ったものにも挑戦しそうな気がするのだ。
しかし、彼に、この夕食に対する不満は一切なかった。
彼女の手馴れてきたささやかな料理に舌鼓を打ちつつ、のんびり寛いで過ごすのも悪くない。

「ご馳走様でした」
「うむ。…私は食後の茶でも淹れてくる」
「僕も手伝うよ」
「いや。そなたはそこでゆっくりしておれ」
「そう?」
やはり何か用意しているのだろうか。
そう思わないでもないので、彼はその場はあっさり引き下がったのだが、
しかし、台所から洩れる音は普段と特に違うところもなく、
茶を準備しているのとそう変わりなかった。

時々乱れて響く物音にやや心配にもなるのだが、
ある意味、それはすっかり耳慣れたものでもあり、
不器用ながらも家事に勤しむ舞のことを想うと、自然と速水の顔も綻んだ。
こんな心温まる時間を自分の人生の中に持てるとは、
かつては考えられもしなかったのに――。

「――今日は紅茶ではないのだ。…これで我慢してくれぬか」
「我慢だなんて! 舞が僕のためにいれてくれたのなら、何でも嬉しいよ」
微笑みながら、彼は差し出されたマグカップの中を覗いた。
「これ…」
液体ではあるが、茶よりは不透明で粘度のあるものが、なみなみと注がれていた。
そこから立ち上る湯気とともに甘い薫りが広がる。今日という日を象徴する薫りだ。
「…その、そなたは知っていたのだろう? 今日が何の日か」
「舞は知ってたの?」
「私とて、今日がバレンタインデーだということも、
この日はチョコレートを贈る慣わしがあるということも知ってはいるのだ!」
どことなく得意気な様子も束の間、みるみる声の調子が弱まった。
「だが、そなたも熟知しているだろうが、私は、こういうことは不得手だろう?
…その、情けない話だが、チョコの成形がどうにも上手くいかなくてな。
到底、人にやれるような見て呉れではなかったのだ。
そなたが私のチョコなんぞに期待していたかどうかは知らぬが、
しかし、そういう慣習の日にあって、何も渡せないというのも、
そなたの、カ、カダヤたる者としてはあまりに不甲斐ないのでな。
それで急遽、救済処置としてカフェショコラなる、その飲料の作り方を教わったのだ」

彼女を知らぬ者が見れば怒気を含む表情に見えたかもしれないが、
そうでないことを、この少年は誰よりも知っていた。

「これはそなたにチョコを渡せなかった詫びでもある。
夕食も質素なものしか手が回らなかったしな。
済まぬが、せめて、その中のコーヒー成分で下がった士気を上げてくれ」
「謝ることなんてないのに」
カフェショコラにしては、やや粘度が高い仕上がりだったが、
そんなことは彼には全く問題なかった。
「バレンタインデーだからって、絶対にチョコでなきゃいけないってわけでもないだろうし、
舞がそうやって、僕を想って、僕のために作ってくれたのなら、何だって嬉しいんだよ。
僕は、君のその気持ちが何より一番ほしいんだから」
ただ一緒にいられたらいいと思っていた速水だったが、
彼女からこんなもてなしを受けては、やはり感激しないではいられなかった。
「そ、そうか。ならば良いのだが…」
たとえ、コーヒーが入ってなくても、そんな顔を向けられただけで、
少年の士気は一気に頂点まで達していただろう。
少年にとっては、この少女なら仏頂面ですら可愛く見えるくらいなのだ。
その表情が、少年に対して絶技並の威力を発揮するのも無理はなかった。
実際、速水は、士気の上がり切った状態の自分を制するのが難しいくらいだった。
「それに普通のチョコもいいけど、こっちの方がいいかも」
「そうなのか?」
何気ない彼の呟きに舞は耳敏く反応した。
「えっと、ほら、冷たくて硬いのより、あったかいいところがなんか舞っぽいかな、って」

温かくて、甘くて、とろとろに溶けてて。
食べたいと誘惑に駆られずにはいられない辺りがなんだけどね。

邪気のない笑顔の下で、彼女に検閲されたら激昂され兼ねないことを考えたりしていたのだが、
しかし、それをそのまま口にしたところで、彼女が速水の言葉の意図するところを
正確に汲み取れるとは考え難かった。

「…? まぁ、よく分からぬが、そなたが気に入ってくれたのなら何よりだ。
ふむ。冷めぬうちに飲むがいい」
「ありがとう、舞。じゃあ、いただきます」

(――やっぱり、まだ我慢かな)

マグカップの中身と同じく、優しい甘味の中、
ほんの微かな苦味のようなものが速水の胸に広がる。
脳裏を過ぎるその不埒な考えは、実のところ、未だ彼の願望でしかない。
もっとも、今の関係ですら、これほどまでに酔わされているのだから、
理想に走りすぎたものではないことは、確かめるまでもないのだろうけれども。

でも、今はまだ、こんな風に向かい合って食後の語らいを楽しむだけでもいいよね。
とろみの強いカフェショコラを飲みつつ、彼は思った。

誰よりも、何よりも、綺麗な綺麗な舞。
彼女の隣にいる権利を誰かに譲るつもりは毛頭なかったが、
彼女に無理強いするつもりもなかった。
あまりに純粋無垢な彼女を、この自分が穢して良いのだろうかと躊躇う気持ちも彼自身あったし、
何より、彼女を傷つけたり失望させたりしたくはなかった。

この世に舞ほど愛おしく思えるものなど彼に在りはしない。
彼女は、彼にとって、熱そのもの。
彼の生きる意味や目的、価値は、すべて、
彼女の内に燃え盛る情熱に触れて生じたもの。
いつか、彼女の全部の熱に触れてみたい。そう願わずにはいられないが、
しかし、彼女が自分から許してくれるまでは、ひたすら、
彼女のカダヤたるに相応しい男になる努力を重ねることに決めたのだ。

他の誰かじゃ実現不可能な幸せを君に贈ってみせるから。
だから、いつか、僕に君のすべてに触れさせて――。

希望が叶ったその時、彼女という極上の味に
自分の全身全霊が蕩ろけるに違いないことを確信しつつも、
その日は彼女がくれたカフェショコラの甘やかな温もりに
穏やかな幸せを堪能する速水だった。