伏せた睫毛が白い頬に影を落とす。
ベッドサイドからの淡い灯りに照らされた彼女の顔を
瞬きするのも忘れて見つめた。
どうしよう。
このまま目を開けてくれなければ――。
最近、毎日が楽しいと感じるのは、
別人になりすまし、陽の光の下で自由に暮らせるからなのだと思っていた。
けれども、そうではなかった。
それだけではなかった。
この小隊に配属され、彼女と同じクラスになって、
そして同じ士魂号3番機に乗るパートナーとして選ばれて。
戦場を駆けめぐる日々はもちろん過酷だったけれど、
芝村と共にいると思うと、それだけで頑張れる気がしていた。
それは、彼女の強さに勇気付けられてただけではなかった。
今日の戦闘で負傷した彼女を見て、はじめてそれを思い知った。
彼女の怪我はそう酷いものではないと診断された。
今、眠っているのは薬のせいなのだ。
それでも、僕は心の中でひたすら彼女を呼び続けていた。
舞、舞。
お願いだから、早く目を覚まして。
そして、また僕を叱って―――
いつもは「芝村」と呼んでいるのに、今は彼女のその名だけを祈りの言葉のように、
何度も何度も繰り返す。
こんなこと、きっと他の誰にも思わないだろう。
いつの間にか、彼女のいる世界が当たり前のものと思えていた。
すっかり忘れていた。
今のこの世界がどれほど貴重なものなのか。
彼女と過ごす日々に、どれほど心が弾んでいたのか。
彼女ひとりがいないだけで、こんなにも揺らぐ世界。
それはかつていた暗い世界よりも尚、恐ろしく思えた。
「…――何をしている?」
不意に少し途切れがちな声が病室に響いた。
「ここは…ああ、病院か…」
僕が答えるよりも先に思い当たったらしい。
伏せた顔を慌てて上げて、僕は彼女を伺った。
「芝村――…」
さすがにその声に普段の張りはなかったが、それでも彼女の瞳は
いつもと同じに真っ直ぐだった。
「……どうした? 速水。…何をそんな顔をしている?」
気遣われるべきは芝村の方なのに、彼女は僕を励ますかのように言った。
「私なら平気だ。心配するな。この程度の怪我など、大したことはない」
「大したことあるよ! どれだけ縫ったか分かってるの?
傷跡だって残るかもしれないんだよ?」
「それがどうした。私は構わぬ。傷が残ったところで、私が変わるわけでもなかろう?」
「でも…っ」
彼女らしい物言いが、尚更、僕の心に重く届く。
「何だ? そなたはキズモノになった私は嫌だとでも申すのか?」
「だって――そりゃ嫌だよ! ちがうんだ。キズモノの君が嫌なんじゃない。
傷つく君を見たくないんだよ」
思わず激しい口調で、僕は捲くし立てるように言った。
本当に、こともなげに言ってしまえる彼女を、僕は真っ直ぐ見つめ返せなくなった。
「――このまま、芝村が目を覚まさなかったらどうしようって…」
彼女の強い眼差しを避けるようにベッドサイドに視線を落とした。
「……僕がこんなだから。だから、芝村は僕のカダヤを引き受けてくれて…
そうやって、いつも僕は君に守られてばかりで、今日は怪我まで…
ごめん。本当にごめんね。何度謝っても足りないけど、でも…」
その時、不意に僕は言葉を遮られた。
「――そんな顔をするな」
頬に感じる彼女の掌に、一瞬、心が竦むのを感じた。
ずっと触れてみたくて、決して触れられなかった彼女。
僕が触れるには、あまりにこの子は綺麗すぎるのに。
思わず、彼女を見返した。
君は、僕なんかに触れちゃいけない子なのに。
「そなたが気に病む必要など何もない。そなたは良くやっている」
けれども、意にも介さず、僕の頬にたおやかな手を添えたまま
毅然とした口調で芝村はそう言った。
どうして、この子はこんなにも強いんだろう?
いつも超然と上に立っているから気付かれにくいけど、小隊の中でも、小柄な方で。
そんな華奢な身体で、どうして、そんなに頑張れるの?
取り立てて価値のない僕なんかを、怪我までして守ってくれるほどに。
誰かのために、なんていう生き方は、僕の中にはなかった。
あの暗い世界を抜け出すことで精一杯だった。
かといって、生きることにそれほど希望も持ってない。
それでも死にたくなかった。
あのまま、いい様に弄ばれて終わるのが悔しかっただけ。
ただ奴らを見返してやりたいだけだったんだ。
なのに、この子は掛け値なしに、このロクでもない世界を救おうとしている。
僕だって、こんなに気高い子に守られるほどの人間じゃないのに……
「――速水。もう、そのような情けない顔をするな。
まるで迷子にでもなった子供のような顔だぞ?」
「…そうかもしれない」
彼女の掌の温もりを感じながら、僕は洩らした。
「もし、君がこのままいなくなったら、
どうしていいか、本当に分からないから……」
ずっと憧れていた。
最初は、僕にないものを持っているからだと思っていた。
それほど、君は僕にはない眩しさを持っているから。
どうして、今まで気付かなかったんだろう。
――違う。そうじゃない。
本当は、ずっと気付かないフリをしていただけなんだ。
気付かない方が、きっと幸せだろうから。
本当は、ずっとずっと、どうしても捨てられずにいたんだ。
忘れたくても、消し去りたくても、どうしようもないくらい、
僕はずっと君を想っていたんだ。
「安心するがいい。私はここにいる。
とりあえず、今は、そなたは私の横で笑っておれば良い」
「それでいいの…?」
あまりに迷いのない彼女に、不安すら覚えた。
「ああ。私を気にかけてくれるなら笑ってくれ。私にそれは似合わぬからな。
だから、私にそれを見せてくれないか?」
どうして、そんなことが言えるんだろう?
泣きたくなるくらい、どうしよもなく心が揺れた。
「そなたはいつものぽややんとした顔をしておれば良い。
そのような顔を見せられては、私の調子も狂いそうだ」
「それだけでいいの? そんなことで…」
「おかしいか?」
頬に感じたままの芝村の手に、僕は恐る恐る自分の手を重ねてみた。
思ったとおり、彼女はその手を払おうともせず、僕の眼差しを真っ直ぐに受け止めた。
「……僕が君の横にいていいの?」
「他に誰がいる? そなた以外に」
本当の僕を知っても、君はそう言ってくれるのかな?
君の心を疑うわけじゃないよ。
でも、それくらい、僕の全部がもう汚れきってるんだよ?
君をただ想うことすら、この僕には許されないくらいに。
なのに、笑顔だけでいいだなんて、君は言ってしまうんだ――。
ねえ、芝村。
僕は、その笑顔だって、状況に合わせて、いくらでも作れるんだよ?
心に暗い策略を隠して、無垢で弱い風を装った微笑みを浮かべるくらい、難無く出来る。
作り笑いくらいじゃない。僕は僕のすべてを使って生きてきた。
そうやって、僕は周りを欺き続けてきたんだよ。
今だって似たようなもの。本当の僕は「速水厚志」でもない。
本当は、どこの誰とも知れない、ただの実験体なんだよ?
何もかもが紛い物なんだ。
何の打算もない、本当の笑顔の作り方すら、僕は知らないんだ。
それでも、君の目に、僕がちゃんと笑って見えたとしたら、
それは君がそうさせてくれてるんだ。
「――僕が笑えるのは、君がいるからだよ」
うまく笑えてる自信はないけれど、
これだけは紛れもない本物の僕の気持ち。
君には、君にだけは、偽りの心なんて見せるわけにはいかないから。
「――芝村、大丈夫?」
どこか苦しげな表情の彼女に気付き、また心細くなる僕。
「なんだ?」
「あの、どこか痛むの? そんな顔してるから…」
君みたいな寛容な子でも、僕への不信感に顔を曇らせたって当然だよね。
心の奥で自嘲気味に笑う声が聞こえるようだった。
分かってるのに。君に僕なんか相応しくないことくらい。
君への気持ちに気付いた僕は幸せなの?
それとも、不幸なの?
「えっ、いや、そうではないのだが、その、そう、少し、息が苦しくてだな…」
「ええっ!?」
自分の中の後ろめたさでいっぱいだった僕は、彼女が患者だということを忘れていた。
「ちょっと待ってて! 今、先生呼ぶから――」
「いや、待て!」
慌てて病室を出ようとする僕の袖を掴む芝村。
「医者に診せるほどのことではないから」
「けど、息が苦しいだなんて、放っておけないよ!」
血の気が引く心地だった。
彼女を失うこと以上に怖いことなんか何にもない。
けれども、その彼女にしっかり袖を掴まれ、僕は行く手を遮られていた。
「そなた、私の言葉が信じられぬのか? 私が良いと言ってるのだから良いのだ。
この程度のことで医者の手など煩わせるな」
そう言われても、僕が素直にそれを受け入れられるはずがない。
芝村にもしものことでもあったら…
そう思うだけで、僕の心はこんなにも痛むのに。
「先程も言ったはずだ。安心するがいい、と。
…だから、その、そのように、捨てられた仔犬のような顔をするでない」
珍しく視線を外して、彼女は言った。
「私はそなたのカダヤだ。そなたが私を見限るまでは、ずっと傍にいる。
その日が来るまで、私はどこにもいかぬから、だから、そなたもここにいろ」
捨てられた仔犬――そうかもしれない。
君を失うかもしれないと想像するだけで、僕はこんなにも途方に暮れるんだから。
握られたのは袖口だけど、僕の心まで締め付けられる。
もう、誤魔化せないよ。
僕の全部が、君を想ってる。
それだけが、たったひとつの僕の「本当」。
この気持ちひとつで、僕はもっと君の近くへ行ってもいいのかな?
僕には、この気持ちひとつしかないけれど、
これから僕が君の世界を守ってみせるから。
君がいる世界が僕の世界なんだ。
君なしの世界なんか、もう考えられないくらいに。
たとえ、この恋が叶わなくても、
君さえ生きていてくれたら、それだけでも、僕の世界は救われる。
はじめて知るこの想いは、
それは不幸で、極上の幸せなのかもしれない。