『仔犬の恋 -sideM-』  (サホ)

抱き上げられて、あっちゃんと同じ高さで世界を眺めるのが好き。
あっちゃんの腕の中から見る景色がまいの世界。
あっちゃんがまいの世界なの。
あっちゃんがそばにいない世界なんて、まいはいらないから――― …

―――それは遠い昔のことだ。

これが夢なのは、確かめなくても分かる。
それはもう、とうの昔に捨て去ったもの。
幼い私がたったひとつ望んでいた、あまりに愚かな夢。

なのに、何故、今更、あの頃の記憶を手繰り寄せるように
このような夢を見ているのだろう?

ああ、そうか。
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえるような気がする。

舞、舞、と、何度も何度も呼ぶ声。

それは、耳だけでない。私のすべてに馴染んだ声。
その声が、私の名を呼んでいるような気がするから。

それは、今もまた、いつでも聞けるようになった声。
だが、あの頃のものとは違う。

では、これはなんだ?
この頃の、あの声は、今はもう聞けないはずなのに―― …

その懐かしい声に誘われるように、億劫に感じながら重い瞼を開けてみる。

最初に目に飛び込むのは、薄明かりに染まる天井。
次に目にした光景に、一瞬、息が止まりそうになった。

祈るような形に組んだ手の上に額を押し当て俯く速水の姿が、私の胸に突き刺さった。

「…――何をしている?」
ようやく絞り出せた声は、普段以上に低く途切れがちなものだった。
「ここは…ああ、病院か…」
答えを聞く前に、先に言った。
身体に覚える痛みが自ずと教えてくれた。

ああ、そうだった。今日の戦闘で負傷したのだったな。

そう他人事のように思う。
身体に負った傷よりも、心が痛むからだろう。

「芝村―― …」
それはひどく弱々しい声だった。
こちらを伺うその表情も、すっかり憔悴しきっていた。
あの、誰にでも見せる愛想笑いは、今は陰すら見えない。
「……どうした? 速水」
躊躇いながら、私は訊いた。

その姿に。
あの声に。
夢と現実の間に惑いながら。

「…何をそんな顔をしている?」
本当に、今の速水は、この世の何処にも身の置き所がないといった有様だった。
「私なら平気だ。心配するな。この程度の怪我など、大したことはない」
「大したことあるよ! どれだけ縫ったか分かってるの?
傷跡だって残るかもしれないんだよ?」
ようやく答えらしい答えを返す速水。
それでも、その表情が冴える気配はなかった。
「それがどうした。私は構わぬ。傷が残ったところで、私が変わるわけでもなかろう?」
そなたを守れたのなら、その傷跡は何にも勝る勲章になるのだから。
そう心の奥底で、そっと付け足す。
「でも…っ」
「何だ? そなたはキズモノになった私は嫌だとでも申すのか?」
こんなことを言うのは不得手なことくらい、百も承知だった。
笑えない冗談でも何でも構わなかった。ただ、速水にこんな顔をさせたくはなかった。
「だって――そりゃ嫌だよ!」
激しい口調で速水は言った。
「ちがうんだ。キズモノの君が嫌なんじゃない。
傷つく君を見たくないんだよ」
私の思いとは裏腹に、速水の顔は曇る一方だった。
「――このまま、芝村が目を覚まさなかったらどうしようって…」
私から目を逸らし、速水はベッドサイドに視線を落とした。
それはまるで懺悔でもするかのような様に見えた。
「……僕がこんなだから。だから、芝村は僕のカダヤを引き受けてくれて…
そうやって、いつも僕は君に守られてばかりで、今日は怪我まで…
ごめん。本当にごめんね。何度謝っても足りないけど、でも…」

「――そんな顔をするな」
まだ何か言いかけていたが、それにも構わず、私は速水の横顔に手を伸ばした。

それはずっと禁じてきたこと。
故意に触れはしまい。
いつも、すぐに手の届く場所にいて、そこから、ただ守ろう。
そう戒めてきた。

――なのに。
こうして、今の速水の項垂れる姿に、
私は差し出した手を引き戻すことは出来なかった。

私の掌で、速水の左頬がすっかり覆えた。
あの頃は、両手を使っても出来なかったことだった。

過去の記憶が交差する。
捨てたはずのそれに支配されるなど「芝村」に許されはしないのに。
これは薬のせいなのだろうか?

「そなたが気に病む必要など何もない。そなたは良くやっている」
驚いたように目を見開いて、再び私の方へ少し向き直る速水に
私は殊更「芝村」である自分を意識して言った。
自分で線引きをせねば、またあの不幸を繰り返してしまう。

手を伸ばせばすぐ届く距離にいると、そう決めたのは、
昔のように、いつでも縋りつくためではない。

今度こそ、生きていてほしいと。ただそれだけを願うから。
世界を捩じ曲げてまで願った、それが私の最大の望み。
そして、願わくば、他の皆にも生きていてほしい。
これは贅沢な我侭かもしれない。
贅沢でも、我侭でも、それでも、それこそ正しく選択された世界なのだと思う。

もう二度と失いたくはない。あっちゃんの――皆の笑顔を守りたい。
それさえ叶うのなら、この捩じ曲げた今、私は喜んでこの命も差し出そう。
そのために私は「芝村」になり、戦う術を身につけた。
今度こそ、望む世界を実現させるために。

「――速水。もう、そのような情けない顔をするな。
まるで迷子にでもなった子供のような顔だぞ?」
「…そうかもしれない」
速水はその頬を触れられるままで、払い除けようともしなかった。
「もし、君がこのままいなくなったら、
どうしていいか、本当に分からないから……」
そんなことを言う速水の方が、余程、このまま消え入りそうだった。
「安心するがいい。私はここにいる。
とりあえず、今は、そなたは私の横で笑っておれば良い」
芝村的口調で、保護者面して。
本心を隠しながら、それでもそう言わずにはいられなかった。

想像もしたくない。
何よりも、それが私には怖いのだ。
この男が再び私の目の前からいなくなることが。

「それでいいの…?」
信じられないといった風に速水は私をまじまじと見つめた。
「ああ。私を気にかけてくれるなら笑ってくれ。私にそれは似合わぬからな。
だから、私にそれを見せてくれないか?」

それは昔の私なら少しは出来たこと。
私に笑い方を教えてくれたのはあっちゃんだった。

あの日、そのあっちゃんの笑顔を失った。

もう一度、あの笑顔が見られるのなら、
自分の笑顔を捨てることなど容易いことだった。

こうして、また目の前にいて、笑ってくれさえすれば、
私の幼い愚かな夢など、取るに足らぬ些細なものだ。

「そなたはいつものぽややんとした顔をしておれば良い。
そのような顔を見せられては、私の調子も狂いそうだ」
「それだけでいいの? そんなことで…」
「おかしいか?」
やはり、いつもの「芝村」としての私らしくはなかっただろうか。
そんな不安が過ぎった時、速水は頬に触れたままの私の手に、自分の手をそっと重ねた。
まるで壊れ物でも扱うかのような慎重さで。
「……僕が君の横にいていいの?」
「他に誰がいる? そなた以外に」
迷うことなく答えた。

何か言おうとしたのか、速水はその口を開いたが、
また閉じて、私の顔を見つめた。

あまりに凝視するので、私が問いかけようとした、その時だった。

「――僕が笑えるのは、君がいるからだよ」

それを見た瞬間、私は我が心を疑った。

――なんとしたことだ?

速水の笑顔など見慣れていると、そう思っていた。

誰にでも振りまく笑顔。
それが愛想笑いだということは、すぐに分かった。
昔、私に見せてくれていたものと違っていたから。
それでも、こうして、傍にいる今、
速水が私には時々本心から笑みを零しているように見えた。
それは、きっと、私が他の誰よりも近いパートナーだから、
打ち解けてきただけなのだろうと思っていた。

しかし、今、速水が見せたのは、私の予想を裏切るものだった。
私が知る、どの笑顔とも違っていた。

私を伺うかのような頼りなげな目をして、
その顔にいたいけな微笑みを浮かべていた。

こやつは仔犬か――?

まったくもって、あの頃の私には思いも寄らぬことだった。
誰よりも優しいと思っていたが、それでも、
あっちゃんを捨てられた仔犬の如く感じることなど有りえなかった。

――そうだな。私も成長したのだな。
そんなことを思う。

縋りつくように健気な様を見せる速水に、和むようなものさえ感じているのだから。

――いや、違う。

それを自覚した瞬間、鼓動が不規則に早まった。

昔から、誰よりも一番好きだった人。
それでも、あっちゃんに対して、こんな気分に囚われたことなどなかった。
今、目の前にいるのは同じ男でも、ただ、優しいだけではない。

こんな速水が可愛く思える、その感情は、本物の仔犬に感じるそれとはまた別のものだ。
それは、もっと心が騒ぐようなもので――

「――芝村、大丈夫?」
「なんだ?」
不意に訊かれ、答える声がどこか拍子外れなものだった。
「あの、どこか痛むの? そんな顔してるから…」
心配げに速水が身を乗り出すように訊いてきた。
「えっ、いや、そうではないのだが、その、そう、少し、息が苦しくてだな…」
「ええっ!? ちょっと待ってて! 今、先生呼ぶから――」
「いや、待て!」
余程気が動転したのか、ナースコールがあるにも関わらず、
病室から駆け出ようとする速水の袖を掴んで、慌てて制した。
「医者に診せるほどのことではない」
「けど、息が苦しいだなんて、放っておけないよ!」
「そなた、私の言葉が信じられぬのか? 私が良いと言ってるのだから良いのだ。
この程度のことで医者の手など煩わせるな」

医者よりも、そなたが傍にいる方が良いから――

思わず言いかけた言葉を飲み込んで、不安そうな顔の速水に言った。
「先程も言ったはずだ。安心するがいい、と。
…だから、その、そのように、捨てられた仔犬のような顔をするでない」
その顔は、私の胸を締め付ける。
さすがに目を逸らさずにはいられなかったが、それでも私は何とか平静を装った。
「私はそなたのカダヤだ。そなたが私を見限るまでは、ずっと傍にいる。
その日が来るまで、私はどこにもいかぬから、だから、そなたもここにいろ」

――きっと、いつでも、どこでも、何度出逢っても。
私にとって、この男は最初で最後のカダヤ。
たとえ、それが一方通行な想いでも、
きっと、私はこの男しか選べないのだろう。永遠に。

掴んだままの袖口に視線を落として、私はそんなことを思った。