『めぐりあう世界』  (サホ)

夜半に洩れ響く妙な物音に気付き、少女は初めてその部屋の中へと足を踏み入れた。

「何をやって…それは――」
訊きかけて、その先を呑み込む。
「雛飾りですわ、舞様」
「いや、それは知っているが…芝村にもこのようなものがあったとはな」
感慨深げに少女はそれを眺める。
「芝村といえども、世間の慣習を知っておいて不都合はないと思い飾らせたのですが、結局、舞様にご覧いただく暇がありませんでしたね」
これからの日々に備え東奔西走していたため、この用意されたアパートには、帰ってきたとしても、それは寝るためだけ。
納戸代わりだと思っていたその部屋に、このような物が飾ってあるとは露ほども思わず、一度も覗くことなく今に至るのだった。
「…そうだったな。今はそういう時期だったのだな――」

見事な七段の雛飾りを目前にし、普段は奥深くに仕舞い込まれた懐かしい記憶が切なく再生される。

それは、今は失われた優しい時間。
その温かさに溺れたくなくて、ずっと封じていた思い出。

――そう。
遠いあの日にも、小隊でも桃の節句を祝ったのだ。
だが、今思うと時期が合わない。
その日にはまだ小隊は発足していないはずなのに。

ああ、そうか。
あれは旧暦で祝っていたのだろう。
桃の花の代わりに桜の枝を飾っていたことを彼女は思い出す。

時間も材料も不足していたが、それでも、何かにつけ、有り合わせの物で即席イベントが賑々しく催されていた。
あの時も、小隊の女子の分すべてを用意する余裕はなく、自分と、もうひとりの少女だけに、皆で手作りした雛人形を用意してくれたのだ。

今なら判る。
あれは、絶望的な状況下で、少しでも士気を保てるように。
そして、幼い自分たちを少しでも楽しませるために。
それがたとえ、どんなに些細なことでも。
何かひとつでも多く明るい話題が用意されたのは、過酷な日々の中、生き抜くことを諦めないでいられるように。
あれは、そのための口実の数々だったのだろう。

あの頃は、そんなことには何も気付かず、ただ温かく守られているだけだったが。

「――片付けるのか?」
我に返り、少女は今更ながら、そう問う。
「日付の上ではもう過ぎてしまいましたし。今日は舞様にとって新たな始まりの日。そういう日に、過ぎたものをそのままにしているというのも…。それに雛人形を飾ったままでいると婚期が遅れるとも申しますしね」
「構わぬ。そのまま飾っておけ」
「でも…」
「そなた、そのような迷信を信じているのか?」
ふっと表情を緩め、少女は言った。彼女らしく強気な語調で。しかし、どこか淋しげな眼差しで。
「どのみち私に婚姻など無縁だ。あるとしたら、芝村の人間として政略上の姻戚関係を結ぶくらいだろう。その程度のものならば、むしろ嫁けない方が煩わしくなくて有難い」

言いながら、少女は思い出す。
あの時も今と同じように思ったことを。

雛祭りイベント後、家に持ち帰り飾っていた雛人形が片付けられようとした時、慌てて、少年の腕にしがみつき、その作業を邪魔したのだった。

雛人形さえ飾ってあれば、自分はどこにも行かずに済むのだろうか。
大人になって、それでもずっと彼の傍にいられたら、いつか彼の“お嫁さん”になれるのだろうか。
たとえ、彼の“お嫁さん”にはなれずとも、ずっと一緒にいられるなら、それでも構わない。
飾ったままの雛人形がそれを叶えてくれるのなら、いつまでも片付けないでほしいと思った。

それは、幼さ故の浅はかな願い。
しかし、その想いが彼に伝えられることはなかった。

彼が約束してくれたから。
来年もまた飾ってあげると。
その先もずっとずっと自分のために飾ってくれると。

だから、あの時、その願いは雛人形ともに仕舞ったのだ。
彼がしてくれた約束だけを頼りに。

――だが。
その約束が果たされることはなかった。

いつまでも永遠に続くと思っていた優しい日々は幻想でしかなかった。

それを失くしたのは、守られることしか知らずにいた報い。
それを痛いほど知ったから、だから、今のこの生き方を選んだ。

なのに、あの頃と何も変わってないようだ。
どこか自嘲気味な笑みを滲ませ、少女は記憶の中の物とは格段に作りの異なる雛人形にそっと触れる。
この雛人形に意味を持たせたいのなら、感傷ではなく、教訓であるべきなのに。

叶うことなら、今も変わらず、他の誰のところへも行きたくなどはない。
自分の“カダヤ”は、生涯、彼ひとりだけだと心に決めているから。

自分のすべてだった、あの少年。
あの頃は“お嫁さん”が何たるものか、本当のところ、この少女にはまだ判ってはいなかった。
それにさえなれたなら、ずっと彼の傍で幸せな日々を送れるものとして、ただ漠然と憧れていたに過ぎない。

だが、今は違う。
彼に迎えに来てほしいなどとは思わない。
傍にいてほしいとも願わない。
あの約束が果たされなくてもいい。

もう一度、会えるのなら。
いや、ただ、生きてさえいてくれるのなら――。

少女は窓から夜空を見遣る。
あの頃と同じように、この空の下に彼があることを想って。

予定では、明日、その彼と再び出逢えることになっている。
また逢えるかもしれない。
もう逢えないかもしれない。
しかし、逢えなくてもそれでもいいと少女は思う。
彼の存在がこの世界にあるという確かな保証さえ得られるのならば。

甘えることしか知らなかった遠い日。
守られることばかりを願っていた、あの頃とは違う。

今の彼女が願うことはひとつだけ。
ただ、彼を再びこの世界に取り戻したい。
たとえ、もう二度と傍に寄り添うことが出来ずとも、心の内に想う“カダヤ”がこの世界に生きていてくれさえすれば、それより他に叶えたい望みなど何もない。

彼がこの世界に存在するというのなら、その世界が守られることこそが正しい選択。
そのために繰り返される世界。

そう。あの頃とは違うのだ。
過ちを正すため。
その誓いを貫くため。
彼のいる世界と再び重なり合うのなら、今度は自分がそれを守り通してみせる。
それが自分の死を意味することになるとしても、今も昔も彼より大切な存在などありはしないのだから。

成長した少女が飾られたままの雛人形に込めるのは、願いではなくそんな決意だった。

それは、1999年3月4日。
彼女が再び彼とめぐりあう数時間前のこと。