味のれんには、鉄という店主がいた。
めっぽう腕の良い料理人で、戦争が始まる前は、遠く北海道や東北から足を運ぶ者もいるほどだった。物資の乏しい戦時中にあって、満足な腕を振るうことは出来なかったが、配給された食糧から見事な料理を作っては、客のために振る舞っていた。
しかし、鉄の家族にとっては、たまったものではない。
鉄には、息子と娘がいたが、偏屈な父親のために、家計はいつも火の車だった。兄妹は、父親のことを激しく恨んだ。
そして、鉄が死んだ。
急に昏倒し、大きなイビキをかき始めたかと思うと、医者が駆けつける間もなくこの世を去った。享年56歳。
通夜も葬式も簡素に行われることになった。残された兄妹は、形だけでいいだろう、と思ったわけである。父が死んでも、別に悲しくもなんともなかった。親戚と近所の者たちが焼香に来て、これで父のことを忘れられると思った。しかし、さらに常連の客がやってきた。こんなにいたのかと思うくらい押し寄せてきて、兄妹を驚かせた。
焼香にやってきた店の客に5121小隊の隊員たちもいた。安くて旨いのをいいことに腹一杯食っては、夜遅くまで騒いでいた学兵たちだった。
「追い払え」
兄は言ったが、妹の方が座敷に上げた。他意はない、追い払うより焼香させた方が簡単だと思っただけだった。
隊員たちは意外にも行儀が良く、次々と焼香を済ませていった。
それを見ながら、妹の方がふと気付いた。
「あの、一番よく来られていた隊員の方。ちょっと小太りの。今日は見えてらっしゃらないのですね」
小太りの、とは中村のことである。
中村は、鉄のことを「師匠」と呼んでいた。味のれんに来ては、仕込みを手伝うなど、弟子のようなこともしていた。そのような中村が焼香に来ていない、おかしいなと妹は思ったわけである。
「ああ、彼なら」
落ち着き払って、遠坂という隊員が答えた。
「あそこに」
遠坂が縁側ごしに指さした先には、裏山があった。一本だけ松の木が立っているすぐそばに、一人の太った男が一升瓶と杯を手にどっかと座り込んでいた。
――中村に間違いない。
「ここ三日ばかり授業もさぼって、ああして泣きながら酒を飲み続けています」
兄妹は呆れた。
遠坂は上品な笑顔を崩すことなく兄妹に言った。それは、遠坂なりの皮肉だった。
「案外、鉄さんが亡くなられて一番悲しんでいるのは彼かもしれませんね」
中村は、松の木を相手に、三日三晩、酒を飲み続けていた。
飲んで潰れ、潰れては飲んだ。
顔をぐしょぐしょにさせて、ときおり師匠、師匠、なぜ死んだと呻いていた。
「ちょっとあんた、いい加減にしてよ」
裏山に上がってきたのは、味のれんの妹だった。
残された家族が大して悲しんでないのに、こんなに人目につくところで泣きじゃくるな、いい迷惑だと妹は言った。しかし、酔っぱらいの中村に話は通じない。
「お前には、わからんばい」
そう言うと、妹を無視して黙々と杯を重ね続けた。妹が散々罵倒しても中村は聞く耳を持たない。妹は仕方なく山を下りた。放っておくしかなかった。
一週間たっただろうか。
兄妹が父親の死亡に関する手続きを終えて、帰宅するところだった。
「おい、あれを見ろ」
兄が指さしたのは、裏山だった。一週間居座り続け、今日の朝出掛けるときにも見かけた、中村の姿がなくなっていた。
「よくも人の家の近くで、一週間も飲んだくれやがったもんだ。まぁこれで何もかも忘れて新しい生活が出来る」
しかし、妹の方はというと微妙な心持ちだった。誰もいなくなった裏山を見て、なぜか寂しさを感じていた。
「おい、どうしたんだ。嬉しくないのか。やっと俺たちは、あのろくでなしの父親とわけのわからない学兵から解放されたんだぜ」
あくまでも嬉しそうな兄であった。
しかし、世の中そう甘くない。
帰宅した兄妹たちを待っていたのは、泥酔した中村だった。目が据わっていた。真っ暗い家の中であぐらをかいて、兄妹の帰るのをじっと待っていた。
「あんたらに話したいことがあるばってん、そこに座るばい」
後ずさりして逃げだそうとする兄妹。中村は猛獣のような俊敏さでとらえ、家のなかに放り込んだ。
「いいから座らんね」
口調はあくまで丁寧で、それだけに不気味だった。
兄妹はおとなしく座った。
何が始まるのだと思って兄妹がビクビクしていると、中村の長話が始まった。亡くなった父親、鉄の話だった。中村が酔いつぶれるまで、兄妹は長話を聞かされ続けた。
しかも、一日では終わらない。中村は翌日も、さらに翌日も来た。
内容は常に鉄の話だった。鉄がどれほど偉大な男だったかを延々、中村は語って聞かせたのである。
不思議なことに、始めは兄妹にとって苦痛でしかなかった話が、二日、三日と聞くうちに聞きやすい話に感じられてきた。中村の口を借りて聞く父親の姿が、本当に偉大なものだと思えるようになってきた。中村が話す父親は、兄妹の知る父親でなかった。仁義に溢れ、誰からも好かれた、立派な男がそこにいた。恨みがあるとは言え、実の父親の話である。からまった紐をほどくように、兄妹は父親への誤解を解いていった。
そして、ついには、今日で最後だとやって来た中村に対して、兄の方が頭を下げて頼みこんだ。
「中村さん。また時間があるときに父の話を聞かせてもらえないだろうか」
そのときである。
初めて、血相を変えて中村が怒った。
「なんば言うとっとね」
怒りに腕が震えていた。中村は立ち上がった。
「あんたらは、鉄さんの子供やなかとね。なんで他人に説明ばされんと自分の親のことがわからんとね。そんなのおかしかと何で思わんとね!」
立ち去ろうとする中村に妹が追いすがった。
「待って、待って下さい」
「もう、ここには用はなか。料理をつくらん味のれんに来る理由はなかたい」
「待って下さい。わたしが、わたしが後を継ぎます」
中村が振り返った。
「あんたが? 無理たい」
「継ぎます」
「無理ばい、やめなっせ。師匠の味は簡単には継げんたい」
「継いで、見せます」
じっと中村が娘の目を見つめる。真剣だった。中村は長いため息をつく。
「分かった。ばってん、じゃあこうするたい」
中村は身を正して言った。
「これから三日間、あんたにコロッケだけを作ってもらうばい。師匠と同等かそれ以上のコロッケを作れればよし。師匠から伝授された全てのレシピを教えてやるたいね。ばってんが、駄目だったらそこであきらめてもらうばい。よかね?」
娘は力強くうなずいた。
それから、中村は授業をさぼり、味のれんにこもり、娘のつくるコロッケをひたすら食すことになった。娘がつぎつぎに工夫して揚げるコロッケを、ひょいぱくひょいぱくと食していく。
「だめたい、味が濃ゆか。だめたい、味がうすか」
中村が帰ったあと、娘は残っていろいろと試す。初日はついに、中村から旨いの一言も言わせられなかった。こんなものはコロッケじゃなか、とまで言われた。娘の目から涙がこぼれる。辛い。
しかし、明日が楽しみだという気もある。わくわくとする気持ちがある。あの男に明日も会える、それがなんとなく楽しい。あの男から、駄目だと叱られるのがなぜか嬉しくもある。あと二日、必ずうまいと言わせてみせる。
そして、次の日も中村は来た。
揚げるコロッケをひたすら食す中村。食べる中村の姿を見るのが、なぜか娘には楽しく感じられる。正午ごろだろうか、中村が娘に言った。
「良くなって来たばってん、まだまだやね」
娘はコロッケを揚げる腕に力を込める。もう少しだ、そう言い聞かせる。もう少しで、この男に認められる。そうすれば。
しかし、ついに二日目も娘は合格できなかった。
がっかりとする娘だが、まだ明日がある。そう思って中村の方を向いたとき、中村の変調に気付いた。
「どうしたの…?」
中村は青ざめた顔をして娘の方を向いていた。まるで幽鬼のように立ち尽くしていた。
「…明日は来るのが遅れるかもしれんたい」
「え? どうして」
「出撃たい」
何も言い返すことができない娘だった。そうだった、この人は学兵だった。明日をも知れぬ身であったのだ。
中村は、背中だけを見せながら娘に言った。
「遅くなるばってんが、必ず食べにくるたい。だから、店を開けておいてくれんね」
「必ず、店に来てくださいますね」
「約束するたい」
そして、中村は帰っていった。
ひとりぽつんと残された店の中で、娘は自分を責めた。
なぜ、嫌だと言えなかったのか。
なぜ、行かないでくれと言えなかったのか。
なぜ、貴方のことが好きだと言えなかったのか。
娘は朝から準備をして待った。
出撃がないことを祈っていたが、ラジオから熊本市街で幻獣が発生し、5121小隊が出撃したことを知った。
娘は神に祈った。
あの太った学兵の無事をひたすら祈った。
しかし、ずっと待てども、学兵は姿を現さなかった。日が暮れても学兵は姿を現さなかった。
いつでもコロッケを揚げる準備は出来ていた。
腹が減ったばってん、とあの太った学兵がやって来れば、例えまずくてもコロッケを揚げる準備は出来ていたのだ。
しかし、あの太った学兵はついに姿を現さなかった。
深夜の12時をまわったころだろうか。
やっと客が来た。
太った学兵ではなかった。
やせた背の高い男だった。
なぜか、びしょ濡れでコートには泥がこびりついていた。
それは前に焼香に来た学兵のひとり、確か遠坂と言う男だった。
「中村から頼まれて、代わりにコロッケを食べに来ました」
見ると、戦闘の疲れか、遠坂の顔には疲労が浮かび上がり、震える足で壁に寄りかかってようやく立っているようだった。
しかし、それでも、遠坂という男は、中村の頼みを聞いて、ここにコロッケを食べにきたのだった。
なぜ、中村の代わりなのか。
なぜ、中村が直接、店にこないのか。
中村はいったいどうしたのか、怖くて聞くことは娘には出来なかった。出来ることは、コロッケを揚げることだけだった。
溢れる涙を流さぬよう努めた。
震える手でコロッケを揚げ始めた。
「うまい。信じられない。こんな旨いコロッケを食べたのは生まれた初めてだ」
一口食べて遠坂は言った。
それは、まるで用意された言葉を喋ったように娘には見えた。そう言えと言われた言葉を述べただけのように感じた。
娘の目から涙が溢れた。
遠坂は、しばし箸を置き、目を伏せて言った。
「中村にも、食べさせてやりたかった…」
その言葉を聞いたとき、全身の力が抜け、娘はその場にくずおれた。
あの中村という学兵は死んでしまったのだ。
もう我慢することは出来なかった。
激しく嗚咽しながら、声を上げて泣きじゃくった。
しかし、慌てたのは遠坂である。
どうやら様子がおかしいと気付いた。
「あの、どうしました?」
娘は涙でくしゃくしゃになった顔で遠坂の方を見る。
「あの人は死んだんでしょ、そうでしょ?!」
「いや、生きてますけど…」
「え?」
遠坂は頬を掻きながら答える。
「中村は病院にいます。重体ですが命に別状はありませんよ」
「重体って、幻獣にやられたんですか!」
いやぁと遠坂は、今度は頭を掻く。
「中村が病院に担ぎ込まれたのは昨日の晩で出撃の前なんです」
「え? だったら、なぜ…?」
「無理はないです。二週間ばかり酒ばかり飲んだ身体で、今度は油ぎったコロッケを二日間も食べ続けたそうなんです。そんなことをすれば誰だって腹も壊しますよね」
恥ずかしさを感じて、娘は顔を赤らめた。
つまり、中村とはそういう男だった。
翌日、味のれんの娘は中村が入院しているという病院に見舞いに行った。
礼を言わなければならない、と思っていた。それは、父親のこと、そしてコロッケのこと。しかし、それだけではない。
娘は中村に伝えるべきことがあった。
どうしても伝えなければならないことがあったのだ。
「中村さんは、朝早く退院されましたよ」
看護婦からそう言われて、娘は急ぎ店に戻った。中村が退院した足で寄ってくれるのではないかと思ったからだった。しかし、店に戻っても誰もおらず、誰か来た形跡もなかった。娘は店を開けて待ち続けた。次の日も次の日も、店を開けて中村を待ち続けた。
「バトラー、いいのですか?」
「なんのことね」
校舎の屋上で、ぶっきらぼうに遠坂に答える中村がいる。
「味のれんのコロッケ、評判になっていますよ」
「なぁに、まだまだ」
中村は鼻の下をこすりながら、
「食えたものじゃなか」
と、いつものガキ大将の顔で言った。
「厳しいですね」
「そんなことなか、普通たい」
「味のれんの娘さんにではないです。貴方自身にです、バトラー」
中村は笑う。笑いながら青空を見上げた。
「なぁタイガー。いつか戦争が終わったら…」
「その名で呼ばないで下さいよ。なんですか?」
「そのときは…、いっしょにコロッケでも食べにいくばい?」
「生きていれば、その時はお供しましょう」
遠坂も中村と並んで空を見上げた。
「午後から本田先生の授業やね。しばらく休んでいたからきちかー」