064 つないだ手  (もぞ)

幼い手の温もりが瀬戸口を現実世界に引き戻す。
左手にしっかりとしがみつくのは東原ののみ――彼にとっては誰よりも守らなければならない少女である。
「たかちゃん、わかっているのよ」
「そうだな、ののみは偉いから何でも分かっちゃうんだよな」
右手をののみの頭にのせて「いいこ、いいこ」と撫でてやる。
くすぐったそうな仕草をしながら、ののみはぎゅっと腕に力を込めた。
「たかちゃんのことは、ののみはちゃんとわかっているのよ」
「嬉しいよ、ののみ」
「うん、だから、たかちゃん、ののみのとっておきの『あどばいす』をきいてほしいの」

***

手術室の前。
血まみれの胴着のまま、壬生屋は椅子に座り込んでいた。
黒く美しいと評される彼女の髪の毛も、今はこびりついた血液で見るも無惨になっている。
俯いたまま思うのは瀬戸口のことだった。
「壬生屋さん」
顔を上げるとそこには渋面の善行司令が立っている。
慌てて立ち上がろうとする壬生屋を制し、善行は濡れたタオルを差し出した。
「とりあえず顔だけでも拭きなさい。これから学校に戻りましょう」
「嫌です。私、ここを離れることなど出来ません」
「あなたがここにいたところで何の役にもたちませんよ」
それに。
善行はタオルを取らない壬生屋の目線まで腰を下ろす。
「あなたが本当に心配しているのは、ここにいない私の部下のことなのだから、こんな薄暗い場所で一人よがりに沈んでいても仕方がないでしょう?」

***

警察署から出てきた舞は寒さに思わず身をすくめた。
背後で何人かの憲兵が敬礼をしている気配がするのを感じながら、しかし振り返らずに真っ直ぐ歩く。
「芝村!」
門の先では待ちかまえていたのか速水厚志が立っていた。
「何をしている速水。頼んだ仕事はどうしたのだ」
「上着を持ってきたんだ、さあ羽織って」
舞の言葉を無視して速水は彼女の肩に薄手のコートを掛ける。
それは彼の匂いと温もりが感じられる物で、思わず舞は安堵の息を漏らした。
「ま…芝村?」
「いや、そなたに感謝を。すべてが首尾良くいって気が緩んだのかもしれぬ」
「壬生屋はどうなるの?」
「お咎め無しだ。それにあの男を斬ったのは壬生屋ではない」
コートの襟に唇を寄せるように語る舞の姿に、速水は思わず赤面する。
「私の役目は終わったのだ。あとはののみと善行があの二人を上手くコントロールするであろう…聞いているのか? 速水」

***

その光景はいつまでも瀬戸口の意識を支配した。
壬生屋の震える手が瀬戸口の右手を包み込み、その手から刀をゆっくりと取り上げる。
「ごめんなさい」
何故謝るんだ? と聞きたいのに瀬戸口の喉はからからで上手く言葉が出てこない。
血飛沫を浴びながら、あとは彼女を見つめることしか出来ないでいた。
「あなたを巻き込んで、こんなことまでさせて」
目の前の壬生屋は斬られた男を助けようと必死になっている。
その男は幻獣共生派で。
お前の命を狙っていて。
あぁそれなのにお前は、貴方は、慈悲の心でそいつを助けようというのか。
「瀬戸口くん?」
貴方を助けたのは偶然なんかじゃない。
その男が貴方を殺そうとしていたことは前から本当は分かっていたんだ。
色々言いたいことはあって、聞いて欲しいこともあるというのに、自分の声はひどく不自由で。
何も言えぬまま逃げ出すことしか出来なくて。
そんな瀬戸口を現実に引き戻したのは、ののみから与えられた左手の温もりと言葉であった。
「たかちゃんが笑えば、未央ちゃんはあんしんするのよ。未央ちゃんがあんしんすると、たかちゃんの心もすくわれるのよ」

***

壬生屋の身体にこびりついた血液は透明ながらも鮮やかな赤い水へと姿を変えて排水口へと流れていく。
それでも独特の臭いは取り去ることが出来ず、彼女の心を重くする。
幼い頃から人間の敵は幻獣なのだと教えられてきた。
だから人間の敵が人間なのだという場面を突きつけられて必要以上に混乱したのかもしれない。
瀬戸口が嫌っているはずの自分を守って他人に刃を向けてしまうことも想像だに出来なかった。
斬る直前の瀬戸口の瞳の色は鮮やかな赤。
思わず「いけない」と壬生屋が叫ばなければ、男は即死したであろう。
しばらく経てばきっと、瀬戸口は己の行動を後悔するのに違いないのだ。
本当は優しい人だから、愛を信じる人だから。
自分を襲った男の安否がひどく気になってしまうのは善行の言うとおり瀬戸口の為でしかない。
用意された小隊の制服を身に着ける。
無性に瀬戸口に会いたい。
会って「気にしないで」と言ってやりたい。
言ったところで「自惚れるな」というひどい言葉を投げつけられるのは覚悟の上だ。

***

キュロットスカートから伸びる青白い脚が恥ずかしくて、壬生屋はしばらくシャワー室から動けないでいた。
シャワー室の前には何故か瀬戸口が待ちかまえている。
生足に草履、着慣れない制服。
やはりこんなはしたない格好を瀬戸口には見せられない、と壬生屋は落ち込む。
「いい加減に出てこい。風邪ひくぞ」
「出来ませんっ」
瀬戸口は盛大にため息をついてみせた。
どんな格好でも気にしないのにな、と呟き言葉を続ける。
「今日はごめんな、怖がらせた。それだけ伝えたくて」
「あ……もう気になさらないで下さい。すべては私自身のことだったんですから」
「俺は自分の手を汚すことでしか壬生屋を守れなかった。そしてお前を傷付けた」
あまりに静かな口調。
壬生屋はそっとドアを開ける。
「俺の手はもう取り返しのつかないほど汚れきっているのさ」
「……あなたの手がいつも誰かを守って汚れていくのだとすれば、誇りに思っても良いのではないでしょうか」
少なくとも私は……私は。

***

つないだ手がお互いの温もりを伝え合う。
プレハブの教室は予想以上に冷え込んで即席のソファの上で二人は一つの毛布にくるまれている。
言葉はない。
ただ微笑みあって見つめ合う。
そして朝が刻一刻と迫っているのを二人は惜しむ。
もう帰らなくては、と壬生屋は思い。
もう帰さなくては、と瀬戸口は思い。
もう少しだけこのままで、と二人は願う。
きっとこの場を離れてしまえばいつもどおりの日々がやってくる。
いや、いつもどおりでは有り得ない。
二人は秘密を共有したのだ。
瀬戸口はつないだその手を己の頬に押し当てる。
「信じて」
これからこの手を離すけど、この関係は明かせないけど。
必ず貴方の傍にいて、またこの手を汚すけど。
「すべては俺の為だと思って」
許して、何より哀しまないで。
貴方が笑顔であることが、俺の救いになるのだから。