003 春の雪 2  (にら)

「少し街から離れただけで、こんなにも空気が違うものですね」
何だかんだ言って壬生屋の順応は早かった。
公共機関を乗り継いで30分。市外西の山の麓まで来た二人は遊歩道を散策していた。
当初の目的の梅にはまだ出会えずにいたが、のんびり歩いている。
「あちらに咲いている花も綺麗…」
瀬戸口より、半ば強引に連れて来られた壬生屋の方が余程春の気配を満喫していた。
これは何、それは何と、ひとつひとつ草花の名前を挙げてはうれしそうに微笑む。
「あら、この花、スズランに似ていますね。何と言ったかしら…」
ふと、そんな壬生屋の弾んでいた足が止まった。
壬生屋の指差した先には、緑の葉の間につぼ状の白い小さな花を房のようにつけた低木があった。
歩み寄り、指で房に触れるとカサカサと花どうしが擦れ合う微かな音がする。
「アセビだな」
「アセビ…」
音を繰り返して花とその名を結び付けようとする壬生屋の耳に、瀬戸口の深い声が続く。
「――磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折めど見すべき君がありと言はなくに」
「え…?」
瀬戸口がさらりと口にした響きには、どこか物悲しいものがあった。
壬生屋は瀬戸口を見る。
「『綺麗に咲いている花を見せたいと手折ったのに、貴方はもういないのでしたね』――。
謀反の罪で殺された弟皇子を思って姉皇女が詠んだ…死者を悼む歌だ」
口元に含んだ笑みとは裏腹に、花を見る瀬戸口の瞳の紫には僅かに陰が差していた。
だがすぐに瞬き一つでその揺らぎを消すと、瀬戸口は壬生屋に視線を移して苦笑した。
「意外って顔してるな」
「ふふ、いいえ。そんなことは…。”意外に”和歌が似合わないな、とは思いましたけれど」
「同じようなもんだ」
「ふふふ…」
古典が得意ではない瀬戸口が和歌をそらんじた”意外さ”を、お互いに茶化して笑う。
時を経ても薄れることなく心の奥で燻り続ける喪失の痛み。
不意に瀬戸口の心を縛るかつての自分を、今は悲しいとは思わない。
彼に出会って嘘をつくことを覚えた。
心を抑えて、笑うことが必要なことがあることを知った。
“優しい”嘘とは云わない。けれど、見えない振りをしているのでもない。
壬生屋は瀬戸口の腕に手を伸ばした。
絡ませるにはまだ勇気が足りなくて、そっと触れる。
気付いた瀬戸口が、ごく自然に壬生屋の手を握った。そして、歩き始める。
視線を落とせば、自分に合わせてゆっくりと歩幅をとる瀬戸口のつま先。
壬生屋は思う。
――こういうところが、いつもこの人はずるい。
合わせた手の暖かさに言葉を無くしてしまう。
風にのってほのかな甘い香りが漂ってきて、向かう先に梅があることを知らせてくれた。