奈良時代の遣唐使が持ち帰ったといわれる中国原産の五弁花。
現代ではお花見といえば桜だが、『万葉集』の時代は”花”といえば舶来品の梅の方が愛でられていた。
「まぁ…」
壬生屋の口から感嘆のため息が漏れる。
二人の目の前には見事な枝ぶりの梅があった。
地を這ういくつもの幹から天に向かって枝が伸び、小輪一重の花が咲き誇っている。
青空に映えるすがすがしい可憐な白は、まるで春の雪だ。
「臥竜梅か。こいつは相当な樹齢だな」
株から横臥して伸びた枝が一旦地中に入って根付き、また新たな株となる。それが長い時間をかけて放射状に広がり、梅林を形成している。
壬生屋は声もなく見入っている。
無意識にか、奥へと入っていく壬生屋に瀬戸口も続いた。
ふと壬生屋の足元に目線を落とし、瀬戸口は噴出しそうになるのを堪える。
足が地に着いていない。夢の世界にでも迷い込んだみたいだ。
ひとつの事に囚われるとそれしか見えなくなるのは、彼女の純粋さの現れだ。
そして、自分はもう彼女が何をしても愛しく思わずにはいられないんだろう。
――いいさ、惚れたら”最期”だ。
「未央」
「はい?」
呼ばれて振り返った壬生屋を瀬戸口は抱き締めた。壬生屋が小さく息を呑む。
「隆之さん…?」
「髪が枝に引っ掛ってる」
枝に掛かっている壬生屋の髪を取りながら、もう片方はしっかりと壬生屋の腰に回されている。
「これだけ綺麗に伸ばすのに、だいぶ手がかかったんだろう?大事にしないとな」
「ありがとうございます。…あの、もう――」
「匂いに酔った…」
恥ずかしがって離れようとする壬生屋を腕の中に引き込み、瀬戸口はその肩に顎をもたれ掛けた。
「嘘」
なかなか雰囲気に流されてくれない強情さも可愛いと思ってしまうのだから、本当に終ってる。
もがく壬生屋を強く抱きこんで、瀬戸口は囁く。
「…未央にも、移ってるな…」
額に口付けると、清純な香気が鼻腔をくすぐった。
「もう、仕方の無い人…」
壬生屋は小さく呟いて、瀬戸口の胸に頬を預けた。黒髪の間から覗く耳が赤い。
顎を取って仰向かせると、瀬戸口の顔がまともに見られないらしく、困ったように視線を逸らせる。
と、
「あっ」
「ん?」
瀬戸口が塞ごうとした唇が大きく動いた。
次いで、笑みの形が作られる。
「私、もうひとつ素敵な春を見つけました」
うれしそうに破顔すると、壬生屋は緩んだ瀬戸口の腕の中から抜ける。
ほら、と壬生屋が屈んで示したところには、蕗の薹が僅かに顔を出していた。
目に優しいふっくらとした新緑に、いいところを邪魔された瀬戸口も思わず笑みを漏らす。
自然の美しさには、人間はただ頭を垂れるばかりなのだ。
そして二人は春の訪れに改めて感謝を贈り、日暮れを前に帰路に着いた。
次の日。
瀬戸口が調理室の前を通ると、味噌汁の匂いが漂ってきた。
ちょうど昼に誘おうと壬生屋を探していた瀬戸口は、当たりを付けて調理室のドアを開いて声を掛ける。
「いい匂いだな」
「隆之さん」
「たかちゃん!」
中にいたのは、壬生屋とののみだった。
「丁度よいところに。今、出来上がったところなんです」
手にお玉を持った壬生屋が、瀬戸口にどうぞとあらかじめ箸を準備した席を勧める。
「お、うれしいね。何を食べさせてくれるんだ?」
「では、ののみさんはこれとこれをテーブルに運んで下さいな」
「わぁ。おいしそうだねぇ」
壬生屋から皿を渡されたののみが、覗き込んで歓声をあげる。
両手で落とさないように持って瀬戸口の前に置いた。
「天ぷら?」
「そうなの。みおちゃんといっしょにつくったのよ」
「そうか、がんばったんだな。すごくおいしそうに出来てる」
「えへへ~」
ののみの頭を撫でながら、瀬戸口は皿にのっている見たことない食材の天ぷらは何だろうと考えた。
天ぷらの衣から透けて見える色は緑だが...。
首を傾げる瀬戸口の前に、続いてごはんと天つゆを入れた小皿が並べられ、最後に壬生屋が味噌汁の碗を運んできた。
壬生屋は席につくと、手を合わせてにっこり笑った。
「いただきます。何かは、当ててみてくださいね」
「「いただきます」」
壬生屋に習って、瀬戸口とののみは手を合わせた。
そして、さっそく天ぷらに箸をつける。
口に入れ咀嚼すると、独特の香りとほろ苦さが広がる。
「これは、蕗の薹か…」
「ふふふ、そうです。お味噌汁の方にも刻んで入れているんですよ。あ、ののみさん、苦さは大丈夫ですか?」
「うん!とってもおいしいの。おひさまのにおいがするのよ」
壬生屋の気遣いに、ののみはにこにこと笑顔を返し、また天ぷらを頬る。
天ぷらにして食べるという頭が無かったので、気付かなかった。
蕗の薹は、日本人にとって昔から馴染みの深い山菜だ。
それにしても、あの短時間に自分が気付かないうちに蕗の薹を摘んでいたとは…。
「春の恵みですね」
「ああ…、うまい」
――何とも逞しいのは人間だな。
自然に感謝を捧げる慎ましさと、生命を取り込みながら生きていく輝き。
かつて彼女が望んだのは、こういうしたたかさだったのかもしれない。
春の雪のように口の中でほろりととける蕗の薹。
瀬戸口は、その滋味深さをゆっくりと噛み締めた。
それは、瀬戸口が壬生屋のことを”未央”と名前で呼ぶようになってから一度目の春のこと――。