086 二重奏  (もぞ)

草の香りがする風が吹くと、あの人のことを思い出す。
懐かしさ、痛み、苦しみ、そして愛しさに満たされて、俺は空に手を伸ばす。
必死に伸ばしたその指先に絡みつくのは一陣の風。
芽吹いた花や葉を散らすかのような強風は、それでも俺の中のあの人を消し去ったりなど出来はしない。
だからといって、この手にあの人の証を掴むことも出来はしない。
それがひどく悲しくて、俺は手を伸ばすのをやめていた。

あの人のことを大事に思う気持ちが恋心なのかどうか、そんなことは今となってはどうでもよかった。
恋ではなく思慕に過ぎないと認めることも出来ない話ではない。
記憶は作りかえられていき、自分の思うあの人が本当のあの人でなくなってしまっていることも承知の上だ。
だけど。
あの人をずっと待っていたい。
自分があの人を忘れてしまっては、あの人とめぐり逢う可能性もなくしてしまう。
「また会いましょう…」
最後の約束をお互いが守れるように、心の中にあの人の居場所を確保するのが俺の生きていく意義でもあった。
…そう、それは今も変わりはない。
それ以外に自分が生き続ける理由は見当たらなかった。
…そう、思っていた。

風に動かされるように一歩を踏み出す。
行く当ても特になく、流されるまま歩く。
鮮やかな新緑が薄い花の色を圧倒する光景を見ながら、季節の移ろいを知る。
感覚で時の流れを知り、匂いでそれを確かめる。そうやって長年生きてきた。
年月を数えるのも、あれからどのくらい経ったのか知るのも、これが何度目の桜かを考えることも、どれも俺を幸せにはしないから。
気がつけば足は学校に向かっていて、自分が案外真面目なことを笑ってしまった。
公園でもう少し道草をしよう、と足を踏み入れると、そこに出会うはずのない彼女の姿を見つけた。

彼女は、とても真面目な戦車兵だ。
融通はきかないし、頭も良くない。
感情をコントロールするということも知らないし、そのくせ他人に注意をしたがる――そういう少女だ。
ただ戦車兵としての己の適正を信じ、前に突き進むことしか出来ない彼女。

ちょっと前なら気付かれる前に逃げていた。
でも今は…
「どうした、壬生屋」
抵抗なく声をかける。
振り向いた彼女は少し怒ったような顔をしている。
いや、彼女が不愉快そうなのは今に始まったことではない。
気にも留めずに壬生屋をベンチに座らせた。
「真面目な壬生屋さん、学校はどうしたのかな?」
「あなたこそ、今日もさぼるつもりだったんですか?」
「自分のことを棚に上げてお説教かよ…はは」
「私はあなたを捜していたんですっ」
「…俺を…それは嬉しいね…」
言葉の足らない壬生屋の、それでも俺を捜していたという発言にどきりとする。

あの人に向ける感情とはまた違う、彼女を見ていたいという気持ちが俺の中にはある。
この気持ちが恋かどうかは分からない。
そもそも壬生屋は俺の前で嬉しそうに笑ったりしないし、俺も彼女を避け通しだった。
ただ、俺は知ってしまった。
彼女は俺を好きなのだ。
どうしようもなく酷い男だと心底思っている俺のことを、それでも好きだと思い知って泣いてくれるのが壬生屋という人だった。
好意を寄せてくれるのは何も壬生屋が初めてというわけではない。
それでも彼女を邪険に扱う事なんて出来なかった。

「茶化さないでください」
「だってお前さんが何を言いたいのかサッパリ分かんないし」
「………瀬戸口くん、あなたって人は………」
ベンチから立ち上がる壬生屋を、もう一度あわてて座らせる。
この場から逃がしたくはなかった。
出来ることなら側にいて欲しかった。
「な、何で俺を捜してたんだよ」
「今日は瀬戸口くんの誕生日でしょう? クラスメイトの誕生日は悠長に皆で祝う、そういう決まり事があったことをもう忘れてるんですか?」
「…今日は俺の誕生日…あぁそうか、そうだったな」
愛想笑いを浮かべる俺の方を見向きもせず、壬生屋は怒りのオーラを発している。

そして俺は寂しくなった。
「壬生屋…」
彼女に声をかければかけるほど、あの人の居場所が狭まっていくことを俺は知っている。
それでも彼女が俺を好きでいてくれなければ堪えられそうにない自分もいるのだ。
「ね――嫌いになった?」
「………」
「どうしてこっちを向いてくれないの?」
弾かれたように壬生屋がこちらに向き直る。
困惑した表情が彼女の葛藤を表しているようで、不謹慎にも嬉しいと思ってしまう。

だけど。
ここが退き時だ。
あの人の居場所をなくすことだけは出来ない。
これはもう譲れない。
そういう自分が壬生屋の気持ちを手に入れたいなんて、そんな都合のいいことは出来るはずもない。
本当は笑顔も見たいし、彼女が喜ぶことなら何でもしてあげたいと思うけど。
二つの感情を飼えるほど俺は器用な質じゃないし、何より彼女に失礼だ。
それでも諦めがつかない俺は壬生屋の手をとり立ち上がる。
「行こうか、みんなのところに」
つとめて冷静に言ってみる。
彼女の手の温もりが与える衝動を抑えるのに、俺は必死になっていた。