002 もしも許されるなら  (もぞ)

善行が一日の中で原素子の事を考える時間はそう多くはない。
そう、それは例えば彼女に仕事の報告を求める時間帯にやってくる。
居場所はどこだろうか。
何をしているのだろうか。
今呼び付けるのは効率的だろうか。
この思いをめぐらせる時間、それはおよそ2分と30秒。
この逡巡を経て善行は原にコールを入れるのだ。

多目的結晶に入るコールに気付いて原の表情が曇る。
「先輩?」
「なんでもないわ」
無理矢理余裕の笑みを浮かべ、がさごそと書類をまとめ始める。
善行からの呼び出しコール。
これが嬉しかったのは、もう何年も前の話だ。

今は。

小隊長室への足取りは重い。
仕事の報告をしているとき、すでに善行の目は「未来」や「正義」だけを見つめている。
目の前に立つ原の存在を無視しているわけではない。
報告の大事なところは原が辟易するほど詰めて聞く。
ただ、仕事に関係の薄い枝葉の話は受け流す。
原が伝えたいのは受け流された話の中にあるというのに、善行は仕事以上の人間関係を決して彼女と構築しようとはしなかった。

仕事に関する摺り合わせが終われば原といえども「用済み」扱い。
こういった振る舞いは善行の悪癖だ。
そしてこの扱いは原素子にとっては屈辱行為でしかない。
だから小隊長室への足取りは自然に重くなる。
仕事以外のことを拒む善行とのやりとりが此程までに堪えるものだとは思わなかった。

でも、仕方ないか。

二人の間には「過去」がある。
彼女も善行に対しては相当意地の悪いことをしているわけで。
この悔しさもまた意趣返しの嫌がらせで気の済むまで晴らせば良いだけのことなのだから。
そう言い聞かせて平静を保つ。
多目的結晶に再度入る呼び出しコールにため息をつきながら、原は書類の束を小脇に抱えて小隊長室のドアを叩いた。

「入るわよ、善行」

善行の返事を待たず、いつものように言い放って部屋に入り込む。
ドサッと書類を机に置く。
「決裁書は上の方にまとめてあるから、自分で選り分けて頂戴。優先順位の高いものから並べてあるわ」
そつのない言い方で自ら壁を作る。
そう。自分から相手を避ければ、傷は小さくて済む。
原のビスクドールを思わせる冷たい表情を何の感動もなく善行は見ていた。
「わかりました。ところで払い下げされた95式短滑空砲のテストデータはどれでしょう」
「………」
書類の束のどこかにあるわよ、という雰囲気を漂わせる原。
腕組みをしたまま彼女を見つめる善行。

軽く舌打ちをして折れたのは原素子の方であった。

確かこの辺…と束に手を伸ばし前屈みになる。
ゆっくり歩いてきたはずの原の肌を汗がつたう。
それは徐々に雫となってぽたりと善行の机の上に落ちた。

やだ…

この水滴の一つでさえ失態だと感じて、原は慌ててポケットに手をやった。
いや、手をやろうとして出来なかった。
強い力に阻まれて全く手を動かせなくなっていたのだ。
「ぜ、善行…?」
腕組みをしていたはずの善行の手が、今は原の二の腕を掴んでいる。
理由が分からず恐慌に陥る原を見ながら、善行自身も己の行動に混乱した。

いや、彼女と違って理由は分かっている。
分かっていながら混乱する自分に苦笑する。
机の上に落ちた水滴。
これが善行の心をざわつかせたのだ。
…水滴を涙だと勘違いしたとでも言うのか…?
彼女の手を自分の意志で振り払ってしまったというのに。
泣かせたところで、それを繕う権利も捨て去ってしまったというのに。
流れ落ちる汗一つで狂ってしまうほど、自分の意志は脆弱なものだったのだろうか。
何かに怯え何かを期待する原の視線が胸に痛い。

かつての恋人への想いは、どこか他人事で、それでいて生々しい。
日常生活の中に記憶は埋もれてしまうのに、ふとした瞬間にそれはまさに現実として心を支配する。
それは匂いを伴って。
それは熱を持って。
五感の全てを刺激するのだ。

懐かしい甘い香りは彼女の秘所の手触りさえも思い起こさせた。
名を呼び抱き寄せ、彼女の体温を感じることが出来たなら、どれほど満たされることだろう。
彼女を泣かせて、こぼれ落ちる涙を味わうことがもう一度出来るなら、「男」に戻りたいとさえ思う。

しかし。

善行は真っ直ぐに前を見つめる。
自分の薄っぺらい正義を「本物」へと変貌させるために、理想に生きると決めたのだから。
何事もなかったかのように手をはなす。
手元にあったタオルで無言のまま机の上の水滴をぬぐった。
「…何なのよっ…!?」
怒りで震える声、肩、指先。
分かっている。自分の冷たい仕打ちが彼女を追いつめる。

だが、分かったところでどうしようもないことだ。

呼び覚まされた五感を再び埋もれさせるために善行は大きく呼吸をした。