018 殺意  (もぞ)

覚醒はふいに訪れる。

カーテンの向こうの空はもう白んでいる。
うっすらと目を開けつつ、もう一つの温かい塊が側にあることを感じ取る。
うつぶせにした気怠い身体はそのままに、原は顔だけを男の寝姿の方に向けた。
痩せこけた頬。
眉間に寄せられた深い縦皺。
安らぎや癒しとは程遠い顔で男は眠っている。
褥を同じくしている男にこんな顔をされたのは初めてだわ――軽い屈辱感を覚えながら原は一つの疑問点に到達した。

昨晩の出来事は果たして事実だったのか。

***

「最近、あなたを尾行している人物がいるようですよ」
原が善行に忠告を受けたのが昨日のこと。
せいぜい気をつけるわ、と虚勢を張った彼女を善行は酷く叱咤した。
「今の主任の言動は無責任で無自覚な態度ではないですか」と言う善行の本音は、ただ単純に「あなたが心配です」という他にない。
押し問答の末にようやく善行は本題を口にした。
「しばらくは日の高い時間に帰宅するようにして貰えませんか」
半ば懇願するような彼の言葉を原はあっさりと否定した。
今の小隊の状況を考えれば、彼女なしに整備が追いつくとは到底思えない。
二の句が継げない善行に対して、原は余裕の笑みをこぼした。

「ねぇ善行、私が尾行されているのはそんなに心配?」
それは…言い淀む善行の困った顔がやけに可笑しく感じる。
「だったら家の中に私を一人にしておくのも心配じゃないのかしら…?」
曇る善行の表情から、原は主導権を手中に収めたことを確信した。
「一人は怖いわ。お願いよ、私を安心させて頂戴」

***

善行と迎える朝は何度目だろうか。
彼女の方が先に目を醒ますのは、それでも初めてのことだった。
原は思案しながら恐る恐る自分の右腕を布団の上に出してみる。
傷だらけの指先。
細い手首。
そして、シルク地の寝間着の袖――やはり昨晩は…
原はきつく唇を噛みしめた。

やはり昨晩は何も起こらなかったのだ。

布団から身体を起こし、険しい表情の男を見下ろす。
シャツは第一ボタンまでしっかりと留められていて、それだけでも充分寝苦しそうであった。
「善行、ねぇ善行」
出来るだけ心を込めて名前を呼んでみるが、彼は目を醒まさない。
「あなたにとって私は一体何なのよ…」
出来るだけ起こさないようにそっと彼のシャツに手を伸ばす。
ボタンを外すつもりで指先に力を込めると、善行は小さな呻き声をあげ目を開けた。
「…あぁもう朝ですか…」
呟くような声。
枕元の眼鏡を探しあて、いつものようにそれを装着する。
言葉もなく黙っている原をよそに、善行はゆっくりと立ち上がる。
彼の目線は原の寝間着をしっかりと捉え、次に自分の衣服に乱れがないか確かめて、ようやく彼女の顔へと移された。
「役目も果たしたようですし、帰ります」
どこか安堵したかのような善行の表情に、原は底知れぬ怒りを感じた。
「役目、ですって?」
原は両手で善行の手を取り、再び布団に引き吊り倒す。
柔らかな布団に善行の半身を埋め、彼の肩を両腕で強く押さえつけた。
「何に安心したというの? この状況で私の願いを叶えたとでも言うつもり?」
「あなたの願いは叶えたはずですが? 一体何が不満だと言うのですか」
ずれた眼鏡に手をやりながら善行は答える。
原は羞恥心にも似た感情に襲われ言葉を呑み込んだ。

言えるワケがない。

言えるハズもない。

あなたとの間に、何かを期待していたなどと、どうして言うことが出来ようか。

咄嗟に両腕を善行の首筋へと移動させる。
全ての体重を掌に乗せながら、原はじっと彼の目を見つめる。
あんなに好きだった男を。
裏切られてなお、こんなに好きな男を。
どうして憎まなくてはならないのだろう。
指先に力を込めても善行は抵抗の一つも示さない。
それがまた酷く悲しくて仕方がなかった。

せめて見苦しく足掻いてくれれば。私の相手をしてくれたなら――

はらはらと落ちる涙が善行の頬を濡らす。
何がこんなに泣けてしまうのか。
それは原自身にもよく分からないことだった。