032 抑圧  (もぞ)

この手の中に愛はない。
与えられた愛情を拒絶するしか道はなく、それで彼女を追い詰めた。
軽やかな笑い声も、魅了する笑顔も、その全てを僕は壊してしまった。
まっすぐだった性格でさえ歪ませて、もはや自分が愛した彼女は姿を消した。
僕が彼女の愛を拒絶してまで成し遂げたかった正義とは、そんなに尊いものだったのか。
自問自答をしたところで、あの日の彼女は戻りはしない。

彼女と彼の関係を知らないわけではなかった。
――むしろ最初は歓迎していた。
厄介払いか、責任逃れか。
人はいろいろ言うだろうが、彼女の幸せを願う気持ちに嘘はなかった。
素気ない態度を見せていても、彼女を守る為の方便は何でも使った。

憎まれても。
恨まれても。
蔑まれても。

唯一愛した彼女が生きられる世の中であるのなら、僕はそれだけで満足だったはずなのに。

僕は知ってしまった。
気付いてしまった。
今でも彼女の目は期待を込めて自分を見ている。
与える愛情など何も残ってないはずなのに、それでも僕に執着する彼女の心が重かった。
聞けば「愛はない」と答えるだろう。
分かっている。
彼女はその強がりで自分を保っているのだ。

僕に当てつける為ならば、仲間でさえも裏切る女。
一途な思いはそのままに、愛だけを失った彼女はどこまで流転するのだろう。
そういう彼女に仕立てたのは自分だと分かっていても、そう、この手の中に愛はないのだ。
彼女もきっと知っている。
嫌うよりも求める方が、僕の精神を追い詰めるであろうことを。

夜明けのハンガーで偶然出くわす。
おはよう、の挨拶もなく、彼女の手が僕のネクタイを掴み取る。
甘い香りと煙草の匂い。
…仲間との情事の後は、いつもそうやって僕に絡む。
「肌が疲れてますよ」
「あなたが全部悪いのよ」
微笑む彼女は見知らぬ女だ。

この手の中に愛はないのだ。

外見がどれほど彼女に似ていても。
その在り方が彼女でないなら。
僕はもう欲しくはない。