008 天上の青  (もぞ)

音もなく風が吹く。
まとわりつくように風が舞う。
壬生屋の黒髪が艶やかに流れていくさまを、ただ綺麗だと速水は思う。
灰色の景色の中で、彼女の場所だけが別世界だと感じた。

二人は病院の屋上で立ちつくしている。

下界を見下ろす青い瞳も、まとわりつくような風になびく長い黒髪も、なんと幻想的なことだろう。
舞は壬生屋を「天性のパイロット」と呼ぶけれど、速水にはそうは思えなかった。
さしずめ彼女は。
幻想的ではあるけれど「ただの少女」にすぎない。
このまま護られて生きていくのが似つかわしい、美しい少女…

「私に、もう少しだけ力があれば…」
彼女の呟きに速水は首を横に振る。もはや「もう少し」では足りるまい。
「怪我を治すことだけ、壬生屋に出来るのはそれだけだと思うよ」
淡々とした速水の口調。彼の言葉が壬生屋の今の立場を知らしめる。

瀬戸口がパイロットに志願したのは壬生屋が怪我をした翌日のことだ。
それは大きな驚きを小隊にもたらした。
突然の配置換え。
しかも彼の乗る一番機は壬生屋の装備と何ら変更がなかったのである。
両手に太刀を持ち接近戦に持ち込むその姿は、皆に壬生屋の勇姿を思い浮かばせた。
あれほど壬生屋の戦い方を否定していた瀬戸口が。
壬生屋と同じスタイルで戦場に立っている。
そして。
壬生屋以上の戦果をあげていた…

結論を言えば、小隊の中に戦車兵・壬生屋の居場所はなくなってしまったのだ。
速水をして瀬戸口がパイロットであったほうが生存確率が上がるだろうと思っている。
しかし。
舞だけは壬生屋にパイロットとして復帰して欲しいと願っている。
だからこそ速水はここにいるのだ。
彼の全ては舞の思惑のためにある。
全ての事象に公平な舞が望むなら、それは正しい選択なのだ。

「なんと不甲斐ないことでしょうね」
壬生屋の周りの空気だけが一層重くなっていく。
「一番機に瀬戸口くんを乗せる結果を作ってしまうなんて…」
「大丈夫だよ壬生屋。みんな壬生屋の帰りを待ってるんだから」
取り繕うかのような発言だとは思ったが、他にかける言葉もなかった。
慰めの言葉に壬生屋は微笑んだ。
その微笑みは速水の知らないもので心ならずも魅入ってしまう。

灰色の景色の中で青い瞳だけが輝いている。
下界を見つめる横顔が心なしか神々しくさえ感じられた。

空気は湿り気を帯びるのに、壬生屋のその艶やかな黒髪は流れるようになびいている。

「あの人にこんな思いをさせたくて生まれてきたわけではないのに…」
ただの少女の口から紡ぎ出される不思議な言葉。
「私は嘘をつきとおすべき存在だったのに…」

下界を見下ろす青い瞳から涙がこぼれ落ちるのを、ただ綺麗だと速水は思う。
彼女をただの少女だと思うのに。
舞よりも尊い存在なんてありえないと思うのに。
何故こんなにも目が離せないのだろう。

自分の青い瞳に見知らぬ壬生屋を映しながら、速水もまた下界を見つめた。