052 ありがとう  (もぞ)

大量のジャガイモが入った麻袋を抱えて地下マーケットから新市街アーケードへと出たところで、壬生屋は思わず動きを止めた。
聞き慣れた声が聞いたこともないような優しいリズムで耳へと飛び込んできたからだ。
心の表面を軽やかに滑っていくような音。
気配を消して辺りを窺うと、ゲームセンターの入り口で女子高生と会話している瀬戸口の姿をみとめた。

いつも学校で見かける人だ。

随分とめかし込んでいる女性の正体をあっさりと見破れることに、我ながら情けない執着をしているものだと自嘲した。
特定の恋人を作らないと公言している瀬戸口が、唯一、尚敬高校に通う彼女とだけは毎日のように校内デートを楽しんでいる。
どんなに鈍感な壬生屋でも、その存在に気付かないはずはなかった。

瀬戸口の彼女と同じく、街は華やいでいる。
今日はクリスマスイブ。
なぜか人間が心躍らす祭日には幻獣が出ないのだと経験則で知っている人類は、日頃の鬱屈した空気を吹き飛ばさんと、ここぞとばかりにはしゃぐのだ。
もちろん壬生屋にとっては何の意味もなさない日ではあったのだけれど、少しのお洒落もせずに新市街まで出てきてしまったことをちょっとだけ後悔していた。

瀬戸口に見つからないよう人混みに紛れる。
「今夜くらいはずっと…」
彼女の声が甘い響きを伴って耳に届く。
自分が今置かれている状況を思いながら、壬生屋は唇を噛みしめた。

先の戦闘で自機を壊してしまった壬生屋は、整備班の皆に溜め息を吐かれながらも謝罪の意を込めて雑用を一手に引き受けていた。
「壬生屋が悪いのではない」
そう舞は彼女に非がないことを宣言してくれたが、その言葉は速水と善行を肯かせただけで、結果としては壬生屋の助けとはならなかった。
特に善行が庇ったことが整備班長の原をひどく立腹させてしまったらしく、ハンガーで仕事をするのも居たたまれないのである。
そんな苦しい状況で、瀬戸口は壬生屋に一番機を降りるよう無表情で提案してきた。
「お前さんみたいなのが死んでも、悲しむヤツはいるからな」
冷たく言われたことを思い出し、壬生屋は何とも情けない気持ちになって大きな息を吐いた。
そうしなければ涙がこぼれてしまうのではないかと恐れたのだ。
麻袋を固く握りしめ、アーケードの柱にヨロヨロともたれかかる。

落ち着きなさい、未央――今回の件とは関係なく、瀬戸口くんは私のことを嫌っていたでしょう? 今更…今更何を揺れるというの――

その時、肩を叩く者がいた。
ハッとして顔を上げる。
そこには予想もしない人物が立っていた。
「来須先輩…」
大きな影は帽子を目深に被り直して、壬生屋から麻袋を取り上げる。
「あの…どうして…」
「――世界の選択…」
「え?」
「あの方がお前の助けになるようにと望んだ」
静かに告げると、来須は歩き出した。
背中がズンズンと遠ざかる。
壬生屋は慌てて追いかけ、そして追いつく。
来須は振り返らずに、ぽつんと言った。
「あの男は、俺とは違う」
ともすれば人混みに消されそうな小さな声ではあったが、必死に壬生屋は彼の言葉に耳を傾ける。
「必ずお前のもとに戻ってくる」
だから――
「…泣くな」
アーケードを抜けたところで来須は壬生屋に向き直り、自分の帽子を彼女に被せた。
突然の出来事に、壬生屋はただ戸惑う。
学兵の仲間に恋を応援されたのも優しくされたのも初めてで、どうしたらいいのか分からなかった。
来須の表情は優しくて、何よりも彼の声が温かくて、胸がいっぱいになっていた。
それはまるで在りし日の兄を思い起こさせるようで…

こんなとき、何と言えば良いのかしら…そう、そうだ、たしか兄様が…

涙を拭い、顔を上げる。
「ありがとう、ございます」
精一杯の笑顔で壬生屋は言った。
来須は少し驚いたような顔をして、やはりほんの少し微笑んだ。
「…帰ろう。皆も待っている」
何事もなかったように、再び来須は歩き出す。
小走りに駆ける壬生屋は、もう瀬戸口を振り返ろうとはしなかった。