080 少女  (もぞ)

まだ来ぬ壬生屋を思いながら、岩田は黒い月を見上げている。
黒い月は何も語らない。ただ、いつものようにそこに存在するだけだ。
月を見るのに飽きると、岩田はおもむろにうつむいてフゥとため息をついた。

ここは岩田が個人的に所有するラボである。
このラボに毎日のように通っていた壬生屋だが、ここ最近姿を現さなくなった。
――理由は岩田には分かっている。
瀬戸口隆之。
あの男が壬生屋の邪魔をしているのだ。
目ざとい速水でさえ気が付かなかった岩田と壬生屋の関係を、瀬戸口は動物的感覚で嗅ぎつけた。

(関係といっても)
岩田は首を傾げる。
彼女との関係をどう説明すれば良いのか、岩田には適当な言葉が見つからない。
いや、見つけようと思っていないと言った方が正しい。
なぜなら元々、壬生屋未央という人間に、岩田は興味を抱いていないからだ。
――生真面目で冗談も通じない、不器用なつまらない少女。
学校で岩田から話しかけることはまずなかった。
それは壬生屋も同様だったようで、壬生屋から話しかけることもまずなかった。
しかし、それはお互いがお互いを必要としていなかったということではなく、
二人の間に会話はもともと必要なかったということかもしれない。
お互いの利益の為の共闘作戦は気味が悪いくらいに上手くいっていたのだから。

今日も壬生屋は幻獣という幻獣を殺戮し尽くした。

壬生屋に未来を委ねようと決心したのは、いつの日だったのか。
古い血が記憶を継承していくのだという壬生屋の家。
そしてその能力は衰える一方だという壬生屋の哀しみ。
――その全てが岩田の癇に障った。
決して記憶を失うことが出来ない岩田にとって、
壬生屋の嘆きは戯れ言だった。
能力だけ欲する姿はまさに俗物だった。
――そう思っていたはずなのに。

「私は舞の未来を見たいのですよ」

そう、つい漏らしてしまった岩田の言葉に対し「やり直しは望まないけれど…だからこそ…」と壬生屋は確かに口にした。
岩田の方を見ることはなかったが、明らかに岩田に向けられた言葉に間違いなかった。
「西洋型士魂号を知っています」とも言った。
もしも。
「もしも因縁めいた無為な戦いに彼を巻き込まないと約束して下さるのなら」
私は。
「彼女を守り、幻獣を狩って絢爛舞踏になりましょう」
何故それを知っているのだ、そんな力量があなたにあるのか、たくさんの疑念が岩田を支配する。
この女は殺すべき女だ
…しかし岩田に壬生屋は殺せなかった。
俗物に過ぎないはずの彼女から、理不尽にも神々しい雰囲気が発せられていたからだ。
もしかして。
この人ならば。
舞の未来の為に…いや。
ループという絶望から自分を解放してくれるかもしれない。
「分かりました、手を組むというわけですね…ふふふ」
お互いの利益の為だけに成り立った契約が、二人の関係の全てであったのだ。

壬生屋は何よりもこの契約を優先した。
それこそ寝る間を惜しんで戦闘や訓練に臨んだ…それは惜しむどころの話ではなかった。
朝まで仕事に勤しみ、そのまま授業に参加する。
一睡もせずに幻獣を狩り、訓練し、そしてまた幻獣を狩るという毎日。
やつれた表情をするものの体力は万全の状態で、速水や舞はともかくとして、新井木や滝川は心底壬生屋を気味悪がった。
もはや人ではないのではないのか…そう噂する声さえ聞かれた。

岩田は。
最初の頃は、たかだか瀬戸口の身を保障してやるだけでこれほどの働きを見せるとは何と美味しい取引をしたのだろうと思っていた。
やがて壬生屋の異常な状態を知ってからは得も言われぬ不安を感じるようになっていた。
岩田はこの感情を契約履行が危ぶまれるから沸き起こったのだと理解した。
質の良い睡眠を得られない人間が効率よく戦えるわけがない。
「――ですから、ねぇ壬生屋さん、私の作った装置の被実験体になりませんか?」
すべては契約の為、お互いの利益の為に。
岩田は私設のラボで強制的に睡眠を取らせるプログラムを開発し、それを壬生屋に実験という形で投与することを提案したのである。
壬生屋は提案を快諾した。
内密にラボに出入りするようになってからの彼女の戦いぶりは善行司令が眉を顰めるほど華麗さを増していた。
「私は絢爛舞踏になるのです。誰よりも幻獣を殺して、人でない化け物になるのです」
小隊全体を不審がらせる壬生屋の行動は、それでも戦況の悪化に伴い自然と受け入れられるようになっていく。

ただ一人。
瀬戸口隆之を除いては。

ラボ以外の接触が殆ど無い二人の関係を、瀬戸口は動物的感覚で嗅ぎつけた。
壬生屋の心は瀬戸口にある。
彼の足止め工作が彼女に通用しないはずもない。
今日も彼女は戦いに疲れた身体を休めることなく、瀬戸口に捕らわれてしまうのだろう。
それが壬生屋の選択ならば、岩田にはどうしようもないことだ。
契約さえ守ってもらえばそれでよい。
所詮はそれだけの関係なのだから。

再び深いため息をついた岩田の耳に足音が届く。
振り返ると待ちわびた少女の姿が目に入った。
壬生屋の目元には涙の跡がうっすらと見てとれる。
それでも安堵する自分の心に岩田は苦笑した。
「岩田さん」
何日かぶりに聞くその声はひどく懐かしく感じた。
絢爛舞踏の階段を昇る彼女は、なるほど「人間」には程遠い存在になっていく。
滅私の心で愛する人の未来を掴もうとする姿は美しくもあり、哀しくもあり。
己の姿と重ね合わせては嬉しくもあり、不憫でもあり。
「彼はどうしたんです?」
「私は約束を違えるような女ではありませんわ」
穏やかな微笑みさえ見せる壬生屋に岩田の心は揺さぶられる。
「全ては舞の未来の為に、でしょう?」
凛とした声が真っ直ぐに岩田の耳に届く。
岩田にとって壬生屋は。
ただの少女でさえもなかったはずなのに。
全てを赦す存在とさえ思えてしまうのは何故だろう。
この慈悲深い戦神に…彼女に名前があるのだとしたら、それは…。

「――シオネ・アラダ」

壬生屋の耳にその声が聞こえているのかいないのか。
彼女は夜空を見上げながら、ゆっくりとラボの中に足を踏み入れた。
美しい少女と忌まわしい黒い月の対比を目に映しながら、岩田もその後に続くのだった。