『夕暮れ』  (にら)

日暮れ時、教室が茜色に染まるのを待って校舎に向う。

きっと彼女がいる。

ゆっくりと階段を登り、プレハブの薄いドアの前で足を止めた。
引き戸を開ける。

教室の後ろ斜め、長い黒髪の少女が窓際よりは少し離れて座っていた。
入ってきた人影に気付く様子もなく、机の上に遠慮がちに組んだ腕枕に頬を預けている。
窓の方を向いているから顔は見えない。
髪を束ねている赤いリボンが風に揺れるのを綺麗だなと思う。

瀬戸口は器用に机の間を縫って、眠っている壬生屋に近づいた。

ふと人の気配に気付き、目を覚ました壬生屋は何気なく顔を上げた。

ガタガタガタ、ガタガタ。
壬生屋が勢いよく立ち上がった膝裏に押され、下がった椅子が後ろの机を斜めにずらす。連鎖的に音を立てたその後ろの椅子は、微妙なバランスを保って斜めに傾いだ。

顔を真っ赤にして、壬生屋は声も出せず目の前の瀬戸口の顔を凝視する。

「そんなに驚かなくても」
壬生屋と向かい合うよう前の席の椅子に後ろ前を逆に座って、背もたれに頬杖をついた瀬戸口は、姿勢を変えず目だけで壬生屋を見上げた。

壬生屋は自分を落ち着かせるように胸に手を添えると、詰めていた息を吐き、口を開いた。
「あなたが破廉恥なのです」
言葉の割に柔らかい響きなのはきっと無意識。

「何時からいらしたのですか?」
「さてね」
悪びれもせず応える声に一度ははずした視線を戻すと、瀬戸口は楽しげに笑っていて、目が合い、壬生屋はまた赤くなって俯いた。
治まる様子がない動悸に理不尽さを感じる。

と、ちょいちょいと笑顔のままの瀬戸口が、軽い手招きをするのが視界の隅に映った。
「何ですか?」
警戒はあったものの、壬生屋は素直に瀬戸口に近づく。

いいかげん自分でも学習能力がないのではないかと思うのだが、それはいつもいつも後になって思い返して気付く。

吸引力を持っているというのは、こういう人のことをいうのかもしれないと思う。
自分の気持ちを自覚していない壬生屋は、そう言い訳をして心に蓋をする。

十分に距離か近づくまで計って、瀬戸口はにやりと人の悪い笑みを見せた。
ひょいと壬生屋の腕を取り、視線の位置まで引き寄せる。

至近距離の紫の瞳に壬生屋の心拍数がまた跳ね上がる。

瀬戸口は自分の口の端を人差し指で指し示し言った。
「よだれのあと、ついてる」
「!」
壬生屋は慌てて口元を手で覆った。

教室に残っているのが、自分と瀬戸口の二人だけでよかったなどとは思えない。
今や顔からは火が出そうだ。

こんな子供みたいなこと。よりによって一番こういうところを見せたくなかった瀬戸口に、しかも指摘されるなんて、他の誰に見られるよりずっとダメージが大きい。
逃げ出したいが、瀬戸口に腕を取られているのでそれもできない。

自爆です。自爆です。自爆です。自爆です。消えてしまいたい。

一瞬のことのはずなのに、それが目を逸らすことができないばかりにとても長い時間に感じた。

間近に見る瀬戸口は精緻と言っていいほど顔の造作が整っていて、それに引き換えついさっきまで寝ていた自分はどんな顔を晒しているのか想像したくもない。

しかし、そんな感情がもろバレであることなど気付いていないのは本人ばかり。
一生懸命手で顔を隠そうとする壬生屋に、瀬戸口はやはり吹き出してしまった。
「うっそ」
そして、涙目の壬生屋に事も無げに言う。

「瀬戸口くん!」
緊張が解け、代わりに今度は怒りで頬を紅潮させて壬生屋は瀬戸口の手を振り払った。
はじめからそうすればよかったのだとそこで気付き、それでも何故かこの場を去れない自分がいて、壬生屋は歯噛みする。

「ははっ。今時、お前さんのような純粋培養は珍しい」
瀬戸口はひとしきり笑って言った。
わざとらしく笑い涙を拭う仕草までもがさまになっていて、壬生屋の神経に障る。

「ひょっとして、お嬢さんは俺を待ってたとか?」
「断じて違います」
だから思わず、瀬戸口の問いにきっぱりと否定を返してしまっていた。

「じゃあ、何?」
「えっ?あの、それはっ」
しどろもどろで壬生屋は視線を彷徨わせる。

言えない。
帰り際、放課後の教室を見上げて足が自然にそちらに向いた。
夕暮れの色彩の中に瀬戸口の姿を見たような気がしたから。
教室に入って、それが幻視だったのだと分かった。
それでも離れがたくて、ぼんやりと席に座っているうちに意識が落ちていた――などと、そんなこと言えるはずもない。

けれど、探られる謂れはないのだとつっぱねることも思いつかない。
壬生屋が応えあぐねていると、ふと瀬戸口が真顔になった。

「俺は、壬生屋がいるかなと思ってさ」
無性に顔が見たくなったと、いつもより幾分か低い声がぽつりと言葉を漏らす。

「え・・・?」
驚きに思わずまじまじと見ると、瀬戸口は今言ったセリフなどなかったかのような普段と同じ人好きのする笑みを浮かべた。

「あんまり無防備に寝てるなよ。間違って手が出そうになるだろうが」
「間違って、ですか?」
もはやどう言葉を返していいのか分からなくて、壬生屋は反射的に言葉を拾い繰り返す。
ああまた、と頭の隅で警告音が鳴った。

「そう」
適当とも言える相槌を打って、瀬戸口は席から立ち上がる。
一転して壬生屋を見下ろす位置。
分かってやっているなら凶悪だ。

壬生屋は瀬戸口を見上げ、きっと睨み付ける。
「どうせ、私は・・・居眠りをしてよだれを垂らすような女ですからね」
また、いつものパターン。
このままいつものように言い合いになってしまうのだろうと、内心では途方に暮れているのに、もう止めようがない。

「改めて言われなくても分かっています」
「何が」
固い壬生屋の声に、瀬戸口は片眉を上げ呑気に首を傾げる。

「あなたが私のことをどう思っているか、です」
「ん?」
「色気がなくて、手のつけようがない凶暴な女とでも思っているのでしょう?」
怒ります、いいえ怒りましたよ、と凄むと、耐えきれないとばかりにまた瀬戸口が盛大に吹き出した。
「自分のこと良く分かってるじゃないか」

瀬戸口の言葉はやはりこれまでと同様、壬生屋をさらに落ち込ませるもので、こうなるのはもう前世からの業からきているのでしょうと、当たらずとも遠からずなことを思う。

壬生屋は見るからにしゅんと肩を落とした。
瀬戸口はそれに気付き、頬を緩ませる。

名実ともに耳に優しい低音で瀬戸口は言った。
「けど、その認識はちょっとばかり違ってるなぁ」
壬生屋の顔を覗き込むようにやわらかく微笑む。

「確かにお前さんは少しばかり短気で、思いこみが激しくて、すぐに目くじらをたてて、迷刀鬼しばきだかなんだかを振りかざして力に訴えたり、正直手に負いかねるところもあるが…」
「そ、そんな風に思っていたのですね、私のこと…」
「まあ、最後まで聞けって。早合点もお前さんの悪い癖だ」

青ざめる壬生屋にさらに追い打ちを掛ける瀬戸口。
ここまで言われて早合点も何もないのだが、構わず瀬戸口は口を開いた。

「そんなお前さんだがな、」
そこで一度言葉を切り、瀬戸口は乾いた唇を湿らせる。

自分の不器用さを思い知らされるのはこんなときだ。
本当はいつだってうまく言える自信はないのだと、彼女に言ったところで信じてはもらえないだろう。
それは彼女の真剣さを軽く流して誤魔化してきた今までのツケだとよく分かっている。
だから、瀬戸口はできるだけゆっくり用意していた言葉を口にした。

「そんなお前さんだが、けっこう俺は気に入ってるんだってこと、そろそろ気付いてくれてもいいと思うんだがな」

「……」

「もしもし。聞こえてるか?」
止まってしまった壬生屋の頬を瀬戸口はぺちぺちと軽く叩く。

「…です」
呆然と壬生屋は何事か呟いた。

「ん?」
瀬戸口は耳を寄せる。

「空耳です」
今度ははっきり聞こえた。

「空耳と思う?」
恐らくこんな反応が返ってくることは予想済みの瀬戸口は、逆に楽しくなってきたらしい。頬をさらに緩ませて言った。

「じゃ、そう思わなくなるまで繰り返そうか」
「はい…」
壬生屋は上の空で返事をした。
繰り返されるまでもなく、頭の中で瀬戸口の台詞がぐるぐるとまわりっぱなしになっている。

「ああ、俺の言い方が悪かったな」
確信犯で瀬戸口が笑う。
僅かに含みのある声に、壬生屋はつられるように瀬戸口を見た。

どうにか混乱を静めようと何度か目を瞬かせる。

またいつものからかいの一つなのかもしれないという不安。
何を言われてもいいように少しでも心づもりをしておきたかった。
不意打ちにはもう耐えられそうもない。

せめて泣くまいと壬生屋は目元に力を入れた。

「壬生屋。いい提案があるんだが…」
青い瞳がこぼれ落ちそうだな、とそんな壬生屋も見通して瀬戸口は静かに口を開いた。

腕を伸ばすと壬生屋を引き寄せ肩を抱く。

壬生屋が今度こそ本当に固まるのに、安心させるように瀬戸口は肩口に手を添えて、一呼吸間を置いた。
そうして髪を掻き上げ、瀬戸口は唇を寄せると耳に当てた手を介して囁く。

壬生屋は瀬戸口の腕の中、信じられない思いでその言葉を聞いた。

「俺とお付き合いいたしませんか?」

卒倒しそうになりながら何とか頷いた壬生屋に、調子に乗ってしまった瀬戸口がしたことに、後で我に返った彼女が迷刀鬼しばきを持ち出すのも、その日が最後かもしれない。