「……お待ちなさい! あなたという方はどうして、あのような…
あ、ちょっと、聞いてるんですか!」
廊下に壬生屋の声が響き渡る。
「話はまだ終わってませんよ! お待ちなさいったら」
「遠慮しとくよ。聞かなくても分かってるし」
飄々とした態度を崩さない背中を一心に追う壬生屋。
それは見慣れた風景のひとつだった。
彼女の追う人物が誰かなど、聞かなくても分かる。
こんな風に彼女から説教を受けるのは、ただひとり。
瀬戸口の他に、この小隊にはいなかった。
「分かってるって…なら、どうして、あなたはいつもいつも、そのように…」
当の二人にとっても、それはもはや習慣といえるものだった。
少なくとも、壬生屋はそう思っていて、それがまた彼女を苛立たせる原因だった。
「ちょっと! 聞いてるんですか?」
ようやく間合いが詰められたと思った瞬間、壬生屋は身体に衝撃を覚えた。
それは習慣があっけなく崩される瞬間でもあった。
左腕を掴まれ、彼女は身体ごと壁に押し付けられていたのだ。
武芸を習得した身として、それはあるまじき失態だった。
しかし、それを羞じるよりも先に、彼女は別のことに意識を奪われていた。
すぐ目の前にある顔。
いつもはその背を追うばかりなのに。
腕には彼の温もりを直に感じる。
普段と正反対のこの状況だけで十分動揺しそうなものを、
捻り上げられた腕は、袖口から結晶も露で、
それを認識して居たたまれなくなった。
顔から火が出るということを、これほど壬生屋は感じたことがなかった。
「なあ、お嬢さん。何故、そんなに俺に意見したがる?
俺が何しようとおまえには関係ないだろう?」
「そ、それは、あなたが、すぐにあのような…」
勇気を振り絞って彼女は言葉を紡ごうとした。が、すぐにやり込められる。
「不潔なこと、か? けどな、それでおまえに害でもあるっていうのか?」
「それは…」
言い淀む彼女を、瀬戸口はほんの少し目を細めて見下ろした。
「俺は、おまえの言う、その不潔な行為も、おまえだけには絶対しない自信がある。
だから、おまえには何も問題はないはずだ」
それは、他人には見せない意地の悪い表情だった。
口元にだけ皮肉げな笑みを浮かべて、彼は冷たい言葉を更に浴びせた。
「他人のおまえに口出しされる理由も何もない。
たとえ、どんなに不潔でも、それは俺の勝手だ。
その自由を、おまえが侵そうとするのは傲慢だと思わないか?
……それとも、そんなに俺に構ってほしいのか?」
真っ直ぐ目を射抜かれ、胸が痛んだ。
彼から顔を背けたいのに、それも出来ない。
何かひとつでいいから言い返したい。けれども、それすら出来ず、
彼に聞こえるはずもない心だけがただ苦しい悲鳴を洩らしていた。
すぐ近くにある、歪んだ、けれども端整な顔が、自分を見据えたまま言う。
「俺のことは放っとけって。それ以上、俺に踏み込んでみろ。
火傷するぞ」
「……っ」
「――ほら、な。今も、もう、そんな顔してるじゃないか」
そう呟くと、瀬戸口は不意に掴んでいた手を解いた。
ほんの一瞬、後悔の色をその紫の目に滲ませ、
そして、すぐに取り繕うように軽く冗談めかして笑う。
「お嬢さんくらいの器量なら、他にいくらでもいい男は見つかるだろ。
まぁ、俺ほどの色男はいないと思うけどな。
……だが、俺よりも、おまえに相応しい男は、別にいるさ。そいつを探すんだな」
彼はそう言うと、わざとらしく、その手をひらひらと振りながら、
一度も振り向くことなく、今度こそ本当に彼女の視界に入る範囲から立ち去ってしまった。
「嘘つき…っ」
ようやく、彼女の言葉が零れた。
「火傷が何です」
彼が行った方を睨むように見る。もう影すらも見えない。
「火傷させる勇気もないのはあなたでしょう…!?」
どうして、彼が自分にだけ冷たいの?
他の者にはいつも優しいのに。
なのに、どうして、一番ほしいと思う時に優しい言葉をくれたりするの?
それがどんなに残酷か、あなたは知りもしないというの?
本当は、そう訊いてみたかった。訊いてみたくて、いつも訊けずにいた。
悔しくて、青い目に涙があふれそうになる。
けれども、泣きたくはなかった。
「……卑怯です。どうして、それを、あなたが決めるんですか。
他の誰かでは嫌なのに―――」
それが言えるのは、ここに彼がいないから。
結局、自分も卑怯なのね。
それが分かるから、尚更泣くわけにいかなかった。
伏せた顔を、豊かな黒髪が隠す。
一呼吸置いて、顔を上げると、壬生屋は彼が行った反対の方へと足を踏み出した。