強い衝撃が身体を襲い、次いで小さな声が耳に届く。
ぼんやりする頭を振りながら、瀬戸口は目を開ける。
見慣れた街並みと、そして――思わず笑みを浮かべながら、ぶつかった相手を確認した。
まさか逢いたかった相手に、こうも早く出逢えるとは予想外で、自分の運が案外良かったことに笑ってしまう。
ゆっくりとした動作で瀬戸口は自分の右手を差し出した。
手の先には、長い黒髪に赤も鮮やかな道着を身に纏う少女がしゃがみ込んでいる。
彼女は瀬戸口の手をしっかりと見つめたまま、しかしそれを手にとることなく立ち上がり会釈した。
「申し訳ありません」
まったくの他人に謝るように、少女は真剣に頭を下げている。
「――かわいげがないな」
少女は瀬戸口がとても優しい目をしていることに気付かない。失礼なことを言われたことに、ただ腹を立てた。
「知らない人に、そのようなことを言われる覚えはありませんが」
眉根を寄せ、ぷいっと横を向く姿が、あまりにも可愛くて、瀬戸口は役割を失った右手を愛おしそうに自分の胸に押し当てる。
全身で不快であることを表している、その姿さえ懐かしい。
「助けてあげようと思ったのになぁ」
「ぶつかっただけですし、あなたのような方に助けられるほど、私、弱くはありませんから」
「ふーん」
トゲのある言い方をしたにもかかわらず意に介しない瀬戸口の態度。少女は途端に不安になったらしく威勢をなくす。
「…あの…」
訝る気持ちを押し隠しながら、彼女は言葉を探そうとしていた。
瀬戸口は笑みをたたえたまま言葉を繋ぐ。
「じゃあ、俺を助けてよ」
思わぬ彼の発言に、少女は言葉を呑み込んだ。大きな目を更に見開いて、瀬戸口の真意を探ろうとしている。
「…何か、お困りなのですか?」
自信なさげに問いかける。
「お嬢さんの助けが必要なんだ」
瀬戸口は軽く頷いて、ポケットサイズの冊子を取り出した。
「…これは?」
「俺お手製の戦術教本。君は、これから、戦車兵になる、そうだろう?」
少女の纏っていた空気に緊張が走る。
何故それを知っているのだと、警戒している。
何の意味も成さないとは知りながら、瀬戸口は出来るだけ穏やかに語りかけた。
「俺も、学兵になるんだよ、いわば同僚ってやつだ」
「…そうですか…」
硬い表情のまま、少女は強い口調で問いかける。
「ぶつかってきたのは、偶然ではないということですね。何が目的です?」
目的。
そんなものは、ただ一つ。
「大切な仲間を戦争なんかで殺されたくないんでね。指南書を皆に手渡してまわっているのさ」
大切な仲間を。
大切な…誰よりも大切な君を、もう二度と失いたくはない。
それを今、彼女に伝えても分かっては貰えないことを知っている。
「…傲慢な方ですね」
冷たい返答。
腕に覚えがある彼女のプライドを傷つけているのだ。まったく損な役回り。だがその道を選んだのは紛れもないこの自分。
「技術はより多く身につけた方がいい。死ぬ確率を低くする」
「私が死ぬと言うのですか? 私はこうみえて戦いを知っています」
「…だといいんだがな」
力なく微笑み、少女の手に教本を押しつける。
「頼むから、ちゃんと読んで。読めば、俺の言うことも分かるから」
俺を助けると思って――君の生存が俺の唯一の願いだから。
心の中で付け足して、祈るように少女を見つめる。
あまりに瀬戸口の姿が必死すぎたのだろう。
生来優しい少女は怒りの遣り場をなくしてしまったのか、彼の視線から逃れるように再び横を向く。
高鳴る心拍数は怒りのせいなのだと自分に言い聞かせ、それがまた滑稽だと感じるのか少女の頬は上気する。
くるくると変わる表情が愛しくて、瀬戸口の心も熱くなる。
だからこそ。
これ以上、無為の時間は過ごせない。
愛し愛される関係を築くことですら、彼女の生存には意味がない。
「じゃ、そういうことで…」
立ち去る背中を彼女に見せて、瀬戸口はひらひらと手を振った。
――それが、3月4日早朝の出来事――