『冬の空』  (もぞ)

食堂の前に陣を取り、愚直にジャガイモの泥を濯ぎ落とす。
タライに張った水は冷たいと言うよりは、むしろ痛い。
空はよく晴れている。
しかし日射しの恩恵は頼りなく、吐く息はただ白かった。

骨が軋むような寒さに、思わず両手を握り合わせた。
己の吐く息でその指先を温めていると、こちらを見ている瀬戸口の存在に気がついた。
そっと手をおろす。
寒さに負けてしまった姿を見られたようで、それが壬生屋にはたまらなく恥ずかしかった。
失態を取り繕うように、小さなジャガイモを一つ、手にとった。
ジンジンとして感覚のない手で包丁を握りしめ、その皮を剥いていく。
決して嫌いではないその作業も、冬の屋外でやるとなると、まるで修行のようだと、壬生屋は思った。

瀬戸口には待ち人があるらしい。
プレハブ校舎の階段下で、暇を持て余すように座っている。
お互いに手を伸ばせば届く距離に並んでいながら、彼はただ彼女の姿を見ているだけ。
そのことがまた壬生屋の居心地を悪くさせている。
むしろ瀬戸口こそが居心地が悪いことを、壬生屋はちゃんと知っているからだ。
いつもの瀬戸口ならば、皮剥き作業を黙って見ていることなんて出来ないだろう。
ここにいるのが自分でなければ、彼はきっと思う存分その優しさを披露するに違いない。

二個目のジャガイモに手を伸ばす。
かじかんだ指の動きは鈍くて、要領よく作業は進まない。
チラリと隣を垣間見れば、カーキ色のコートに包まれた愛しい人の姿が見える。

視線は合わなかった。
瀬戸口はぼんやりと空を眺めている。
壬生屋も空を見上げてみた。
「雪は降りそうにないな」
瀬戸口が呟く。
独り言にしてはハッキリとした口調に、壬生屋の胸は早鐘を打つ。
身体は寒いはずなのに耳元がひどく熱い。
「………」
言葉は返せなかった。
三個目のジャガイモに手を伸ばす。
壬生屋の手から、ジャガイモはころころと地面へと転がった。

「あっ…」
壬生屋が立ち上がろうとするのを制して、瀬戸口が転げたジャガイモを追いかける。
「ほら」
なぜか後ろ手にジャガイモを渡そうとする瀬戸口の姿に、思わず苦笑する。
「何だよ…」
「すみません、そんなに私の顔を見たくないのかって思ったら、なぜか笑いが込みあげて…」
「そんなんじゃない、早く受け取れよ」
「…すみません」
ジャガイモをトプンと水に入れ、ついてしまった土を落とす。

気を取り直して皮剥きを始める。
瀬戸口は、いつのまにか、立ち上がる前よりも近くに座っている。
チラリと隣を垣間見る。
視線はやっぱり合わなかった。
あまりに距離が近すぎて、彼の顔まで目が届かない。
寒さと、居心地の悪さで、手元はますます怪しくなる一方だ。
「あの…」
ここで深呼吸。
「待ち合わせ、ですか?」
「誰と?」
予想外の返答に、壬生屋の動きが止まる。
「誰とって…あの…えっと…そ、それじゃあ、何をしてるんですか?」
「何をって…悩んでるんだよ」
瀬戸口の言っている意味が分からない。
思考がとまったその瞬間、自然とジャガイモの皮剥き作業に没頭できた。

四個目のジャガイモに手を伸ばす。
どういうわけか自分の心臓の音しか、壬生屋の耳に届かない。
指先の感覚があまりなくても、ジャガイモは綺麗に皮を剥かれていく。

五個目のジャガイモに手を伸ばす。
いや。
壬生屋の手が掴んだのは、少しだけ温かい瀬戸口の大きな手であった。
「きゃあっ!」
思わず叫ぶ壬生屋を、複雑そうな表情で見つめる瀬戸口。
「あのなー…ひとつ言ってもいいか?」
「な、な、何ですかっ?」
「気を悪くすると思って、言い出せなかったんだが…」
瀬戸口はおもむろにコートを脱ぐと、それを壬生屋の肩に羽織らせる。
固まる壬生屋のその手から包丁を取り上げると、もう片方の手でジャガイモを掴む。
「皮剥き作業、お前さんが好きなことは、まぁ、百も承知なんだが…寒そうだし、俺が手伝ってもいいかな?」
「………」
「その…壬生屋って、俺に何かされるの嫌がるからさ…」

信じられない発言に、思わず壬生屋は反応した。
「瀬戸口くんこそ、私のために何かするのを嫌なんじゃないんですか?」
「だから、それは、お前が嫌がるから…」
「そんなことっ」
「嫌です、結構です、放って置いてください、って、いつも言うよな?」
「あ…でも、それは…」
「まぁ、俺も悪いんだろう…だから、今日は、こうやって、タイミングをだな…」
そこまで言うと、瀬戸口は慣れた手つきでジャガイモの皮剥きを始めた。

壬生屋は、濡れた手をしっかりと拭いて、そっとコートの前を合わせてみた。
袖を通してみようかと考えて、そんな破廉恥なことを思いつくなんて不潔だわ、と首を振った。
いつもなら、姿を遠くから眺めるだけで、満足できるのに。
こうやって優しくされると、どこまでも欲が出てきてしまう…距離感が上手くとれずに、気まずい思いをするのは絶対に嫌なのに。

とりあえず、心を惑わすこのコートを返さなくては。

「あの…」
「んー?」
警戒心の欠片もない、ただ、ひたすらに優しい声。

コートどころの話ではなかった。
彼の声は、私の心を支配する。

「あの、…ほ、包丁、もう一本、持ってこなくては…」
しどろもどろになりながら、ようやく別の要件を思いつく。
「何だよ、俺と一緒に共同作業したいわけ?」
からかうような気易い口調に、眩暈さえもおぼえてしまう。

「ち、違いますっ!」
「じゃあ、座っとけって」
お前は、水仕事ひとりで頑張ったんだから。

その言葉に動きを封じられ、壬生屋は黙って空を見上げた。
空はよく晴れている。
日射しの恩恵は物足りないが、今の壬生屋は身も心も温かかった。