『夏過ぎて』  (もぞ)

プレハブ校舎の屋上で夜空を眺める。
夜風は思いのほか涼しく。
むしろ肌寒ささえおぼえるほどで。
瀬戸口は戦争の再開を思ってうなだれた。

悪夢の始まりか。
いや、そもそも悪い夢は醒めていない。

束の間の休戦期は、大切な人を奪われるかもしれない恐怖から瀬戸口を救ってくれた。
だがそれさえも幻想なのだと、夏の終わりが瀬戸口に告げている。

トントン――軽やかに階段を駆け上る足音が彼を現実へと引き戻す。

「壬生屋…」

姿も見ずに足音の主が分かるのは、何も相手が「特別」だからというわけではない。
だが、思わず名前を呟いたことで、不覚にも瀬戸口の心は高鳴った。

こんな夜中に何やってんだ…無視を決め込むことが出来ず、瀬戸口は屋上から下をのぞき込む。

1組の教室の前で、壬生屋は建て付けの悪い引き戸と格闘を始めていた。
必死になって戸を閉めようとしている壬生屋の姿が滑稽で、思わず吹き出す。

「へたくそ」

声をかける。
壬生屋がムッとした表情をしたのは僅かな時間。
すぐに、相手が瀬戸口と分かったのか、困ったような顔をした。

「…ほっといてください」

かたい、声。
他人の好意を拒絶するようでいて、でも簡単に強がりだと分かる彼女の声。

それが嫌いではないと気付いたのはいつ頃だっただろうか。

「教室に忘れ物か?」
「いえ…帰ろうと思っていたのですけど…戸が開いているのが気になって」
「はぁ、さすが壬生屋、律儀で真面目だな」
「不用心ですから」

はやる心を押さえ込みながら、瀬戸口はやる気なさげに教室の前へと向かう。
そんな彼を無視するかのように、壬生屋は両手を引き戸にかける。

「おいおい…あんま力入れすぎると、馬鹿力でドアが歪むぞ」
「…っ、本当に失礼な人ですね」
「とりあえず、先に窓の方、閉めてきたら?」

瀬戸口の言葉に、壬生屋は顔をあげた。
暗い教室の奥でしゃらしゃらと白いカーテンが揺れている。
慌てて教室の中へと足を踏み入れる彼女の姿を、瀬戸口は目で追いかけた。

警戒心が強いくせに、隙だらけ。
――俺が今、どんな気持ちでいるかなんて、想像さえ出来ないんだろうな。
目を閉じて深く息を吐き出して…瀬戸口は一歩、教室へと足を踏み入れた。
自然とその手は引き戸にかかる。
あれほど動く気配もみせなかった引き戸は、カタカタと軽い音をたて簡単に閉められた。

壬生屋が振り返る。

「…良かった、ちゃんと閉められたんですね」
「あぁ…」
「これで安心して帰れます」

瀬戸口にはなかなか見ることが出来ない笑顔がそこにはあった。
抱きしめたいという衝動と、笑顔を見続けていたいという希望が、彼の心にクロスする。
壬生屋が窓を閉め終えて瀬戸口の方へと歩み寄る。

瀬戸口には。
どんな思いが去来しようと、瀬戸口には選択肢などあるはずもなかった。

閉めたときと同じように軽い音をたてながら、教室の入り口は開けられた。

「涼しくなりましたね」

瀬戸口の脇をすり抜けながら壬生屋が呟く。

「…そうだな、すごしやすい季節の到来ってヤツだ」
「瀬戸口さん」
「ん?」
「みんなが生き残れるように、私、頑張りますから」

悪夢は醒めてなどいなかった。
頑張ると言う壬生屋の顔は笑顔のまま。

「そんな大したもんじゃないだろう、お前さんの実力とやらは」
「なんですって?」
「とりあえずは自分の命を守り抜くことだ」

俺が守るとも、死んで欲しくないとも言えず。
瀬戸口はただ、壬生屋を突き放すことしか出来なかった。

壬生屋はもう笑ってはいない。
沈黙に耐えられず、瀬戸口はその場を逃げ出した。