『スカボロー・フェア』 1  (サホ)

For she once was a true love of mine.

「他に本命の人がいてもいいの。二番目でもいいから」

壁の向こうから響く声に壬生屋は足を止めた。

ああ、これは。
目にせずともわかるあちらの状況。
実に拙い場面に遭遇してしまったらしい。
ここは今すぐ引き返すべきと判断したその時、これまた、やはりというべきか。

「二番目でもいいなら今とそう変わらないよ?」

聞こえてきたのは予想どおりの声。
予想どおりなのに、その場に縫い止められてしまう足。

「いや、カノジョ的な特別扱いは何もしてあげられないんだ。そんな風に付き合っても、そのうち我慢ならなくなるよ。だったら、今のままでいる方がずっと良くないか? 下手にケンカなんかすることもなく、楽しくやっていけるだろうし。俺も君に嫌われたくないしさ」
「――もう、ずるいなぁ、そういうの。わかったよ。なら、今までどおり、時々はまた遊んでよ? じゃあね」

軽いため息の後、続く、恬然とした宣言。
そこで我に返り、壬生屋は咄嗟に壁に張り付き身を潜める。

良かった。
どうやら小走りに去っていく彼女の視界からは上手く外れていたらしい。
と、そこで安堵してしまったのが間違いだった。

「――他人の告白の盗み聞きとは実に良い趣味だな」
「な…っ、いえ、私は…!」
「へぇ。じゃ、そこに隠れてる理由は?」

軽蔑交じりに見下ろされ、壬生屋は言い返した。

「わ、私はただ、ハンガーに用があっただけで、好きで行き合ったわけでは…! あなたこそ、もっと場所を考慮すべきでしょう!?」
「まぁ、それはそうだけど、不可抗力もあるしな」
「……まるで、先方に非を押し付けるような言い方ですね。瀬戸口くん、まったく、あなたという人は女性に対して気遣うべき方向を見誤っているのではありませんか」
「はぁ?」
「お断りするならするで、もっと誠意のある断り方があるのでは、と申し上げているのです」
「なるべく傷つけずに済むように返事したと思うけど」
「それはあなたの思い上がりでは? 応えられないのなら、ただ、そうきっぱりお断りすることこそ優しさではありませんか」
「それじゃ何だ、泣かせるくらい、冷酷に素気無く断れば良いってか?」
「私が言いたいのは、もちろん、相手の方への感謝の念はあっても然るべきですが、あのように思わせぶりに言い逃れるのは卑怯だということです。そもそも、二番目でも良い、などと言わせるあなたの態度にこそ問題があったとは思わないのですか」
「はっ。こりゃまた詳しくご存知のことで。どこから聞いてたんだか」
「そ、それは、あの、ちょうど二番目云々辺りからで……その、申し訳ありません……」

それに関しては壬生屋に反論の余地はなく、ただただ項垂れるしかない。
が、しかし、返ってきたのは意外に鷹揚なものだった。

「ま、いいけど。で?」
「え? あ、えっと、その、ですから、そう! 大体、あなたは女性に無闇やたらと愛想を振りまきすぎなのです。優しくすることと、気を持たせることとは違うでしょうに」
「お言葉ですがね。俺だって、別に厭らしい下心でもって媚を売ってるわけじゃあない。そりゃ、嫌われるよりは好かれた方が嬉しいけどな。女の子は皆、可愛いしさ――例外もなくはないが」
「何です、その目は。ええ、どうせ、私など、さぞかし可愛げに欠けることでしょう」

今更なことを。壬生屋は内心鼻白んだ。
言葉にしようとしまいと、そんなことはもう既に数え切れぬほど突きつけられた後ではないか。

「それはともかく。俺の気持ちはどうあれ、自分の気持ちを伝えるのは彼女たちの自由だろう? それは俺にはどうしようもないし、何より、向こうも最初から全部承知済みなんだよ、多分」
「え?」
「初めてじゃないんだよな、このパターン。断られるのを前提にして、その上で、あんな風に言ってくるんだ。だからだろ。あのコもえらくさっぱりしたもんだったし」

それは――

瀬戸口の前では、そうだったかもしれない。

しかし、壬生屋は見てしまったのだ。
去り際のあの少女の表情は、晴れやかなどというものからは程遠かった。

「俺だって、あんな卑屈な言葉、女の子に言わせたくはないんだけどな」

軽薄な言動ではあるけれど、きっと、その言葉に嘘はないのだろう。

「……少しは、期待、してしまうから、でしょう。あなたがひとりでいるから」

特定の誰かひとりを作ることなく、満遍なく付き合う。
どれほど多く存在しようとも、そういった相手ばかりでは、詰まるところ、彼が誰のものでもない身であることと、ほぼ同義で。

「どなたかときちんとお付き合いすれば」

つい口を滑らせ、かといって、そこで止めてしまうことも出来ず。
目を逸らして、壬生屋は続けた。

「すぐに万事解決ですよ。いらっしゃるのでしょう? その、特別に想う方が」
「簡単に言ってくれるねぇ。それが出来れば俺も苦労しないって」

苦笑交じりにそう呟くと、愛おしむような色を滲ませ、どこか遠い目をする瀬戸口。

それはつまり。

交際するには何かしらの障壁がある相手、ということなのだろうか。

たとえば。
一番に思い浮かぶのは、あの小さなクラスメイトだ。
彼にとって、ののみはやはり別格だろうから。

それとも原主任、だろうか。
司令を含めて、微妙な関係があるとかないとかいう話は耳にしている。
もしも、それが事実ならば今ひとつ壬生屋には理解し難い――したくないものではあったが、そのような不実な付き合いしか出来ぬ相手を想ったにしては、今のその表情は随分と穏やか過ぎるような気もする。

女性であれば年齢無制限という彼の広すぎる守備範囲からして見当をつけるのは容易ではなく、とりあえず、身近な面々を順に思い浮かべて、壬生屋は弾かれたように顔を上げた。

まさか。

まさか、ひょっとして――速水、ではあるまいか。

確かに、それなら、相当の困難が待ち受けていることだろう。
しかも、他の同性ならまだしも、相手が速水なら、あの芝村の末姫の存在をも見据えてかからなければならないのだから。

そうして。
凝視する壬生屋と。
それを訝る瀬戸口。

「――そっか」

しっかりと互いの視線を絡ませていたことに壬生屋が気づいたのは、不意に彼の表情が変わってからだった。

「良い提案がある」
「はい?」

何を突然。
壬生屋がそう思ったのも、ほんの一瞬。

壬生屋とて見蕩れずにはいられないような綺麗な笑みを口の端に乗せ。
けれども、精々、何やら目論んでいるらしいこと以外、何も見出せない、いやに冷めた眼差しで。

瀬戸口は、ただ一言、こう告げた。

「付き合ってくれ」