『スカボロー・フェア』 2  (サホ)

「――おはよう」

恨めしいほど澄み渡るこの空に相応しい、そんな爽やかな声に一瞬だけ、掃き仕事の手を休めた。

「おはようございます」

挨拶は基本。だから。
儀礼的にそれだけを返すと壬生屋は作業を再開した。

「良い天気だなぁ」

相槌を打つくらいわけもないのだが、ここは洩れ聞こえた単なる独り言として処理する。
それは昨日の反発と教訓。
とはいえ、無視を決め込んだところで、別段、支障もないのだ。
そもそも、自分の同意を得たがるような人物ではないのだから。
と、思いきや。

「ほんと、雲ひとつない空で」

壬生屋の目論見は敢え無く外れたらしい。

「風もないし」

残念ながら立ち去る気配は一向に見られず。

「まさに掃除日和だよな」
「……そうですね」

ほんの僅か、掠める程度に瀬戸口へと視線を遣り、この空模様とは対照的な面持ちで、不承不承に壬生屋は頷いた。

「だから?」

黙っていると、再度質問が繰り返された。

「だから、突然、掃除したくて居ても立ってもいられなくなった?」
「……いいえ」
「衝動的に、じゃないのか」
「……ええ」
「あれ。じゃ、まさか、毎朝とか?」
「……いつも、ぎりぎりのあなたはご存知なかったでしょうけど」

それでなくとも自分のことには興味のひとつも持ったりはしなかったのだ。
ならば、そのまま、無関心を貫いてくれて構わないのに。

「なるほど」

既に辺りに目立った塵らしきものもなく、傍目にはもはや地面を均しているだけにしか見えないのだが、それでも、掛けられる言葉ごと掃き清めるように、これ見よがしなほど 壬生屋は箒を忙しく動かしつつ、併せて、彼から距離を取ろうと試みる。

「それにしても随分と早いんだな」

しかし、その間合いは遠のくどころか詰められるばかり。
しかも、そんな壬生屋の心情を汲み取ることもなく、尚も瀬戸口は撒き散らしてきた。

「いつから?」
「……一時間前にはいましたけど……」
「一時間前ねぇ」
「……ええ」
「それも毎朝?」
「……ええ」

嘘ではない。
これは平時における始業前の日課。
ただ、彼が知らなかっただけのことで。
もっとも、今朝に限っては現実逃避のための口実でしかなかったのかもしれないけれど。
いつもなら一時間前に登校するところが、一時間前にはもうとっくに作業を始めていたような気もするけれど。

「一時間前、か」
「……それが何です」
「何って、決まってるだろ?」
「何が…」
「知っておきたいから」

その瞬間。
壬生屋は息を呑んだ。

「――彼女のことなら何でも」

後ろから抱き締められるような格好で回される腕。
そうして、あっさり箒を奪われるも、為す術もなく固まる壬生屋。

「さて。朝のお勤めは、もう、お仕舞い」

いつの間にか目前の位置にあった用具ロッカーに箒を片付けると、瀬戸口は身を強張らせたままの壬生屋のことなどお構いなしにその手を取った。

「そろそろ教室に入らないとな」
「ちょ…っ、ちょっと、何、放して下さい!」

懸命に振り払おうとするも、動じることなく瀬戸口は軽やかな足取りでプレハブ階段を上ってゆく。

「ちょっと、なになに、どういうことー!?」

そこへ響くは壬生屋の声よりもけたたましい叫び。
始業すらまだなのに壬生屋はどっと疲労を覚えた。

声の主からして、間違いなく、授業が始まる前にはもう隣室に広められてしまうだろう。
果たして、今日一日で綺麗さっぱり打ち消すことは可能だろうか。

しかし。
それはまだ甘い認識だった。

「――よお。愛を振り撒いているかい?」

注目して下さいと言わんばかりに勢いよく戸を開けると、瀬戸口は高らかに宣言した。

「学校で愛を探すのも大いに結構だが、くれぐれも壬生屋にだけは手を出さないように。争奪戦なんてのはごめんだしな」

それは、皆、一様に寝耳に水の話。
しかし、この教室で、誰より、壬生屋こそが驚愕の色を見せていた。

「ほら、さっさと公認になった方が俺もいろいろ安心だし。な? マイハニー」
「は…っ!?」

ハニー?

我が耳を疑いたかった。

確かにそう聴こえはしたが、思考がそこに追いつかなかった。

そうだ。
これは、おかしなウィルスプログラムに侵されたのかもしれない。

咄嗟に浮かんだその希望的観測に壬生屋は縋りつきたかった。
今、耳にした世迷言は彼の口から出たものではなく、自分にだけ聴こえた空耳なのだと。

しかし、その願いも虚しく。
壬生屋の顔を覗き込むように身を屈めると、瀬戸口は見たこともないような眩しい笑顔まで見せた。

「ここは、ええ、ダーリン、とかって頷いてほしいところなんだけど」
「だ――だ、誰が…っ!」
「照れない照れない。そういう顔も悪くないけど」

掴まれたまま手が彼の口元に触れるか触れないかのところまで引き寄せられ、ただただ絶句するばかりの壬生屋に無邪気な声が更なる追い討ちをかけた。

「えへへ。ののみもうれしいのよ」
「そうか! ののみも祝福してくれるか」

この男は何を考えているのだろう。
いたいけな少女に、それも、誰より特別であろう存在に向けて言うことか。

「たかちゃんとみおちゃんは、とってもお似合いなのよ」

違う。
それは、自分以外の他の誰かのこと。
瀬戸口のいう“マイハニー”は別にいるのに。

「やっと決めたんだ。良かったよ、うん」
「意外に遅かった気がしないでもないですがね」

一体、何を言っているのだろう。
瀬戸口をめぐる当事者は、むしろ、自分たちの方ではないか。
やっとだとか、意外にだとか。そう口にするのも、そもそも、何かしら思うところがあるからに違いなく。
それにも関わらず、無責任にも彼らはその厄介事を総てこちらに押し付けることで清算する腹積もりなのか。

「テメェら、朝っぱらから何騒いでやがる! お? 腕なんか組みやがって、なんだ、お前ら、ようやくまとまったのか! 分かったから、さっさと席に着け。 授業始めるぞ!」

そうして、否定も反論も弁解も禄に出来ぬまま、強制的に着席させられてしまっても、尚、壬生屋は混乱の極みにあった。

一体全体、これは何の冗談なのだろう。
まだ寝惚けているのだろうか。夢だとするなら、あまりに酷い悪夢だが、そうであれば、どれほど幸せなことかと壬生屋は暗澹たる心地に苛まれた。

ようやく――なのだ。
この破天荒なパンク教師から見てすらも。
それほど彼の素行は浮ついたものと認識されていたからこそ発せられた一言であって、先程の速水や善行の勝手な言い草は別として、ようやくと言いたくなる気持ちは壬生屋にも十分理解出来る範疇だ。

けれども。
瀬戸口の言うところのマイハニーとやらは間違っても自分のことであるはずがない。
これも同じく――疑うことを知らないののみだけは例外かもしれないが――皆の周知の事実であるはず。
気付かない方がおかしなほど、途方もない虚言だというのに、誰ひとり、特に不審を口にするでもなく。

それはつまり。
事の真偽より、ただ単に面白がられている、ということなのだろうか。

そう結論を出してみるも、それですんなり納得出来るはずもなく、更に膨れ上がった憤懣をぶつけるように壬生屋は元凶を睥睨する。

と。
射殺さんばかりの鋭い視線に気付くも、相手は余裕綽々で。
神経を逆撫でするが如く、ひらひらと手を振り、あまつさえ、ウインクまで飛ばしてくる始末。

「そこ! 早速、何をいちゃこらしてやがる!」

この日ほど、さぼりたいと思ったことは、壬生屋には未だかつてなかった。