『猫の恋』  (サホ)

マイのしっぽを見ていて、不意に芝村のことを思い出した。

あの子のことは、正面からまっすぐ捉えることが出来なくて、
いつも盗むようにしか見られない。

じっと眺められるのは、あの後ろ姿。
春めいてきた陽射しの下、
凛とした背中に揺れる髪。

それだけ。あのポニーテールくらい。
今の僕が、偽りの笑顔も作らず、
目を逸らさずに長く見つめられるのは。

「マイー、おいでー」
すっかり懐いてくれた子猫を抱き上げ、優しく撫でる。
小さな身体は、でも、僕の腕の中では十分温かで。
「……マイはしっぽも触らせてくれるんだけどね」
あの髪に触れてみたいな。
何となく、そんなことを思って、すぐに打ち消す。
そんなこと、絶対怒るだろうな。
この間も、ちょっと肩を触ったくらいで、すごい剣幕だったから。
――それがまたすごく可愛かったんだけど。

本当に、子猫みたいにすごく可愛いと思う。
しかも、すごい血統書付きの子猫。
それは、「芝村」だからじゃなくて、あの子だから。

誰に媚びる必要もない、超然とした子。
他の目も気にせず、毅然と前だけ見据えて立ち向かう。
警戒しながら、なのに、ちょっとした拍子に、
蕩けそうな素顔を無防備に覗かせるんだ。

「あ、マイ、危ないよ」
肩から落ちそうになるマイをつかまえて、
僕は少し笑いを零す。

あの子も目が離せないよね。
ヘンなところで危なっかしくて。可愛すぎて。

他のみんなは、そうは思ってないようだけど。
でも、それに少し優越感を覚えたり。
誰にも教えたくない独占欲に駆られたり。

マイの柔らかい毛の感触を掌に感じながら、
思い出すのはあの子のことばかり。

―――髪だけじゃない。
それだけじゃ収まりそうにもない。

手を繋いで、すぐ横に並んで立っていたい。
華奢なその身体ごと腕に抱きしめられたらと思う。
そして、前から向き合って、その目を見て、
君の心に触れてみたいんだ。
それが出来れば、どんなに幸せだろう。

でも、今の僕にはその勇気がない。
君の心に触れていいような僕じゃないから。

「わっ、いっ、いたたた…どうしたの、マイ?」
急に暴れ出したマイを慌てて宥める。
「ああ、もしかして、やきもち焼いてくれたの?
ごめんね、他の子のこと考えたりして」
言いながら、それでも僕には止められない。

彼女に嫉妬されることがあればな、とか…。
――そんな日が来るとは、とても思えないけど…。

「――あ。マイ?」
そんな僕を見捨てて、マイは窓の隙間にするりと身を滑らせた。
軽やかな足取りで向かう先には1匹の猫の姿。
「…そっか。そうなんだ。マイにも好きな子がいるんだ」
分からないけど、きっと雄猫だろうな。
春だもんね。
芳野先生も言ってたし。春は猫の恋、って。

「春、かぁ……」
仲良さそうに連れ立つ二匹の姿に
嬉しいような、でも、ちょっと淋しい気分になった。
これって、子離れ出来ない親の気持ちなのかな。

それは本当。でもそれだけじゃない。

いつか、あの子も誰かに恋してしまうのかな。
それが不安なんだ。

清冽な眼差し、高潔な心。
どちらも僕にはないもので。
憧れてしまう気持ちは抑えられないけれど、
それを真正面から受け止められるようなものを
僕は何一つもっていないから。

きっと、明日もまた、揺れるあの子のしっぽしか
見つめられないんだろうな。

芝村が誰かを好きになるというのなら、
それを黙って見てるしか、僕には出来ない。
それがどれほどつらくても。

「…良かったね、マイ」
遠くなる飼い猫に呟く。

幸せな恋をするんだよ?
僕の分までしてくれると嬉しいな。
僕に春が来る日なんて、来ないだろうから。