『見知らぬ男』  (もぞ)

部屋に響くのが「声」だと認識するのには時間がかかった。
円筒形の水槽。
そのなかに棲む異形の者たち。
彼らの嘆きがこだまするラボの中に足を踏み入れた舞は、銃を構えて部屋中を探索する。

何かの間違いであって欲しい。

ひたすら舞は願っていた。
入院中の瀬戸口からこのラボの存在を聞かされたときの衝撃を、彼女は今も夢の中の出来事のように感じている。
「あいつを止めてくれ」
人間から幻獣を作り出しているという研究所の中心人物、それが速水なのだと彼は言った。
「まさか」
舞は速水が如何にラボを嫌悪し憎んでいるのか知っていた。
だが、瀬戸口の言葉を嘘だと片付けることも出来なかった。
速水の友人であるこの男は瀕死の重傷を負って病院に運ばれた。
剣技の腕前なら壬生屋の上をいくだろうと言われているこの男を傷付ける人間など、そういるはずもない。

だから舞は自分の目で確かめることにしたのだ。
たとえ瀬戸口に謀られたとしてラボで速水と出会っても、彼自身の口から弁明が述べられれば真実が分かるという自信があった。
だが――
「どうして舞がここにいるの?」
「…厚志か?」
「…あぁ、瀬戸口が生きていたのか…案外おしゃべりだね、瀬戸口は」

背中越しに聞こえるその声はひどく落ち着いている。
舞は悟った。
速水厚志はクロである――

ゆっくりと声のする方に振り返る。
速水は水槽の一つに腕組みをして寄りかかっていた。
完全な丸腰。
舞は黙って銃口を彼に向けた。
速水は艶やかに微笑む。。
緊迫した状況下で恍惚とした顔をする得体の知れない生き物を、舞は無表情に見つめた。

銃を持つ手がひどく滑るのは、暑さのためか緊張のためか。
目の前の男は私のカダヤではなかったのか。
いや、今この瞬間でも速水は私のカダヤであるはずなのに。
自問自答を繰り返すうち、愛したはずの青い瞳が気味悪く思えてくる。
「厚志…貴様がここの責任者だな」
「そうだよ」
それがどうかしたの? と小首を傾げて速水は笑う。
「瀬戸口をやったのも貴様か」
「幻獣にしてやろうと思ったんだけど抵抗されたからね」
「なんだと?」
「殺したつもりだったけど生きてたなんて、さすがだよね」
全身の血の気が引く思いがして舞は息をのんだ。

これは。
この男は。
「仲間を幻獣に、か…」
「うん?」
「…ならば私は貴様を殺さなくてはならないな」
絶望という言葉を思い浮かべながら、それでも舞は怒りの感情を燃やし続けようと敢えて過激なことを口走る。
「僕を殺して、舞は大丈夫なのかなぁ」
ふふっ、と笑いながら速水が問いかける。
「…気が触れたか、厚志。自分の心配をするがいい」
「その提案は拒否させてもらうよ。だって僕は舞だけが心配だからね」
「この痴れ者が…!」
舞だけ、という言葉が、ただ、心を寒くする。

この男があの速水だとは到底思えなかった。
全く別の男だと感じてしまうのは何故だろう。
「貴様は一体何者なのだ…?」
答えを待たずに舞は続ける。
「いや、もはやどうでも良いことだ。せめて私の手で殺してやることが最良の策であろう」
喉が渇く。声がかすれる。
対する速水は婉然と微笑んだ。
「嬉しいなぁ。君が僕を救おうとしてくれていることが良く分かる」
「救うだと…?」
「声が上ずっているよ。指だってほら震えてる。そんなので本当に僕を殺せるのかい?」
顔は笑っているのに、速水の声は恐ろしいほど静かであった。
引き金に掛かる人差し指が痺れる。
「甘く見るな。私は芝村だ」
「でも僕の舞だ」
「言葉遊びをしているのではないのだぞっ」
空虚なやりとり。

もう限界だ。

目を閉じて舞は人差し指に力をこめた。
乾いた音。
火薬の香り。
そして。
静寂があたりを支配する中、舞はゆっくりと目を開けた。
彼女にとっては信じられない、いや、ある意味想像通りの光景が目の前に広がる。

――逃げなかったか――

熱で肉が焼ける嫌な匂いが立ちこめる。
速水の肩は大きく剔れ、なのに彼はただ笑う。
飛び散る肉塊と血液が暗い世界に鮮やかな色を添えていた。
「言ったでしょう? 舞は僕を殺せないんだよ。」
確信めいた口調の速水を、舞は、もはやその瞳に映そうともしなかった。

壊れている、何もかもが悪い方へと向かっている。
いっそ恋に溺れれば良かったのか。
共に闇に堕ちてやれば良かったというのか。
もとより殺すつもりなどなかったが、果たして速水を生かしておいて良いのかどうかの計算も働かない。

「…言ったであろう? 私は芝村だと」
銃を放り投げ、舞は渾身の力を込めて速水の頬を撲つ。
逃げない速水は一撃を片手で受け止めた。
「…確かに私には貴様を殺すことなぞ出来はしない、だが」
もう片方の手で速水の剔れた肩を掴む。
「だが速水、どんな手段を講じてでも貴様の闇は払ってみせる」
圧迫された肉塊が爪の間に食い込んでいくのにも構わずに舞は指に力を入れた。
かすかに速水の表情が歪む。
「私の厚志を…カダヤを返して貰おう」
「僕は僕なのになぁ」
「…残念だ、私はそれを認めない、私のカダヤは…」
舞は素早く速水の足を払い地面に押し倒す。
ポタポタと彼の顔に落ちる水滴を見て、自分が泣いていることに気が付いた。
「私のカダヤは、HEROになる男だ。私が、HEROになって欲しいと願う男だ。人を幸せにしない嘘をつくような男ではなく、世界のどこかの誰かが幸せになるような嘘をつく男だ」
「………」
「何を考えているのかは知れないが、厚志が厚志のままでいられない世の中だというのなら私が変えてやる…だからもうっ…」
血にまみれたその手で、速水の頬をギュッとつねる。
グイグイとどこまでも力を込めてつねり続けた。
涙を流す舞に毒気を抜かれたのか、速水はぼんやりと重力に身を任せていたが、やがて小さな声で「痛いよ、舞」と呟いた。
更に指に力を込める舞。
速水は泣きそうな顔をしながら、喉で笑った。

後日。
当該ラボは謎の部隊による軍事的攻撃により壊滅させられる。
それと同日、とある幻獣共生派の幹部が暗殺されたという情報が流れた。
速水は何事もなかったかのように瀬戸口と並んで歩いている。
舞はそれを黙ってみていた。
まだ、速水がやってしまったことの意味も理由も分からない。
ただ自分に出来ることは、彼を許すことではなく信じることではないかと思う。
「厚志」
声をかける。
飼い犬のように喜び勇んで速水が駆け寄ってくる。
いつもどおりのカダヤの姿。
でも知らない速水がカダヤの中に棲んでいることを、舞はもう知っている。
「秘密行動もほどほどにしておくことだ」
「秘密じゃないよ、瀬戸口も知ってる」
ぽややんと笑う速水。
きっと悪友たちと人には言えないことをしているのだろう。
だがもう薄気味悪さは感じない。
速水はきっと戦ってるのだ――世界のどこかの誰かのために。
舞はそう信じているのだ。