『正しい作法とその心得』  (サホ)

(舞視点のエロくない微エロ描写があります)

あらゆる辛苦に打ち勝ってきて、これが堪えられないとは思いもしなかった。
忠告は受けていたのだ。
誰しも多かれ少なかれ痛みを伴うもの。
最初は不快でしかないかもしれないと。
ましてや、この組み合わせなら、その可能性の方が非常に高いだろうことも。
故に、どうしても、という場合を除き、極力、忍耐を持ってことにあたるべし、と。

だがしかし。
これは聞いていた以上なのではなかろうか。

確かにそれは痛かった。
が、かつて経験してきたものに比べると、どうということもない。
むしろ、その痛みはこの靄がかった脳裏を束の間、クリアにしてくれたと有難く思えたほどだったのだから。

つらいのは、その前後。
はじまりは大丈夫だと思った。
全体的には、哀しいことに、さして自分と変わりなく――実際は予想よりも力強く引き締まってはいたが――だが、唯一、そこだけは激しく違っていた。
注視したわけではなく、ほんの一瞥程度ではあったが、それでも、他の雰囲気とは大きく異なり、猛り狂っていると言っても差し支えないほどに苛烈な様相で。

自然より賜りし物である以上、文句は言えまい。
そう理解はしているのだが、だからといって、この事態が解決するわけでもなく。

つまり、そう、問題は自分の側にあるのだ。
たとえ、相対的には自分とほぼ適合しているかに見えても。
あれだけ念を押された助言を実行することすらままならないのだから。

察するに、 これはやはり、他人ほど丈夫ではなかった、ということなのだろう。

現に思考は鈍る一方で。
呼吸、脈拍、ともに乱れるばかり。
こうしている間も、ますます、この身は砕け散ってしまいそうではないか。

それだけは避けねばなるまい。
このまま終えるより先に、事切れることなどは、決してあってはならず――

「――私には無理だ!」

押し返してはみたものの、自分の中から完全に追いやるまでには至らず。
だが、嘘のようにぴたりと動きを止め、茫然とこちらを窺うその表情に罪悪感を覚えつつも何とか訴えた。

「許せ、速水。これ以上、続けられない。私には堪えられそうにないのだ。許してくれ」
「ごめん、ごめんね、芝村。僕が悪かったんだね。なるべく、つらい思いをさせたくなかったのに、ごめん。上手く出来なくて」
「そうではない。非は私にあるのだ」
「そんなことないよ。僕が芝村のこと、ちゃんと気遣ってあげられなかっただけなんだ。堪えられないほど、痛かったんでしょ?」
「いや、痛みは問題ない」
「え? 痛くないの…?」
「ああ。一瞬のことで、今はさほどでもないしな」
「……痛みがつらいんじゃないの?」
「まぁ、そうだ」
「……えっと、その、じゃあ、何がダメだったのかな…?」
「それはだな、その、そなたに、これ以上触れられるのが我慢ならぬのだ」
「そ、そんなに …そんなに、嫌だったの? そこまで我慢出来ないほど、僕とするのが……」
「誤解するな。言っただろう? 私の身はそれほど丈夫ではないと。だからこそ、これまで、あらゆる鍛錬を積んできたが、思えば、その、そこだけは例外だった。何ら施術を受けたこともなければ、鍛錬どころか、いかなる圧すら加えたことのない箇所でだな…」

ああ、なんという泣き言か。
それでも、言わねばなるまい。
意を決して舞は口にした。

「しかも、その、あまりよくは見なかったが、思いのほか、そう、私にそなたは規格外のようでもあるし、つまり、これ以上続けては、いつこの身体がバラバラに壊れるとも知れぬだろう? 身体だけではない。そなたが触れるたびに――いや、言葉ひとつ、視線ひとつ、吐息ひとつ、それだけのことでも私の思考も働かなくなるのだ」

思い出しただけでも、まるで熱に浮かされたような状態に見舞われる始末ではないか。

「更に進めては身も心も機能を失って死に至るに違いない。だが、私とて、まだ死ぬつもりはないし、何より、そなたに私を殺めさせたくはないのだ。だから、わかってくれ」
「――あのね、芝村? その、君は僕のことを嫌ってるわけじゃないんだよね?」
「聞くまでもなかろう。そなたを想う気持ちに偽りなどない」
「じゃあさ、僕に触られて気持ち悪かった?」
「いや。気持ち悪いというのとは違う」
「不愉快ってわけじゃないんだね? 痛みも大丈夫だって言ってたけど、今はどう? 苦しかったりする?」
「そうだな…。違和感はあるにはあるが、こうして、じっとしてくれてる分には平気なようだ」
「動いたり触ると違うんだ?」

こうするとどうかな、と少し身動ぎされて、舞は慌てて制した。

「今の程度ならともかく、しかし、それが過ぎると、何か朦朧とするような、気が遠のくような、それでいて、ひたすら差し迫った気分に苛まれるというか、とにかく何とも心許ない感覚が襲ってくるのだ」
「だから、やめたいと思ったの?」
「そうだ。どうにもこうにも尋常ならざる状態としか思えぬ。我慢の限界だと決める前に、教わったとおり、プログラムやらアルゴリズムでも考えて何とか気を逸らそうとしたが、そなたのこと以外に何も感じられなくなってだな。かくなる上はと、何かふわふわしたものを浮かべようとしたが、目に入るのは、速水、そなたのそのふわふわした髪だけで」

マイのしっぽでも思い出せれば――いや、何としてもそれを思い出すべきだったのに。

「しかも、その髪をむしり取らんばかりに掴んでみたくなったり。そんな衝動に駆られるのも、まったくおかしな反応だが、この私がロクに物を考えられなくなるなど異常でしかないだろう? ましてや、震えは走るは、力は抜けるは、呻かずにもいられない。それでも、私とて何とか平静を保とうと努力したのだが……速水?」

泳がせたままの視線を戻してみれば、なんと速水は項垂れ肩を小刻みに震わせていた。

「泣いているのか? ああ、注意されていたのだ。無闇に拒んではそなたを傷つけると。そう、わかっていながら、ひとえに堪え切れなかった私が悪いのだ。だから、泣くな。頼むから、泣かないで……速水? 笑っているのか…?」
「ごめ…っ、けど、うん。ほんとに、なんて綺麗なのかな」
「そなた、私をバカにして…っ」
「ちがうよ。舞がすごくすごく綺麗で可愛いんだって、改めて実感してるんだ」

論点のずれを指摘しようとして、はたと気付いた。

舞?

「あのね、きっと、それはとても正しい反応なんだと思うよ。うん」

やたら得意げなその顔に、浮かんだ疑問も忘れて、舞は首を振った。

「気を挫くようだが、それはそなたの思い違いというものだ。この反応は、聞いていたのとはまるで違うのだからな」
「うーん。何をどんな風に聞いたのかわからないけど、あのさ、君は本当にやめたいと思った? ほんの少しでも続けたいとは思えなかったのかな?」
「……正直に言えば、違う。だが、それこそ正気の沙汰ではない証拠なのだ。これほどおかしくなってきているのに、まだ続けてほしいとも思ってしまうなど、自己防衛機能がすっかり麻痺したとか、処理能力に問題が生じているとしか考えられぬ」
「えっと、ね。はじめてだから実感しにくいだろうけど、それは身体が歓びはじめてる証拠なんだよ」
「まさか! 運が良ければ、初回でもそれなりに快く感じられるかもしれないとは聞いたが、これは到底、それなりに、とか、快い、などと生温いレベルではないぞ!」
「それはね、僕にとって、それだけ舞が特別で大切で大好きだから」
「あ、ああ、うむ…」
「それに、舞にとっても、僕がそうだから、かな。というか、そうだと嬉しいなっていう願望なんだけど」
「ふ、ふむ…」
「ねぇ、舞? 僕が舞に痛みを与えるのは、さっきのが最初で最後だよ。僕が舞を死なせるようなことは絶対にないし、それに、死ぬとすれば僕の方だと思うしね。今でも十分、生殺し状態だけどさ…」
「何だと!? それほどにつらいのか?」
「舞と一緒に歓べないんじゃ殺されたも同然だからね」
「そ、そう、か。そう、なのか……」
「無理強いはしないって約束する。本当に嫌ならいつでもやめるから。不安に思うかもしれないけど、もう少しだけ、僕に合わせてみてくれないかな?」

まさしく胸に痛みを覚えるような。
こうもひたむきな眼差しに晒されては、もう他にどうしようもない。

「――わかった。そこまで言うなら、そなたの好きにするがいい、速水」
「ちがうよ」

と、男にしては優美な指が、やんわり口唇に押し当てられた。

「名前」
「え?」
「もう名前で呼び合ってもいい頃かなって。芝村は他にもいるけど、舞は舞だけだし。僕も舞には名前で呼んでもらいたいんだ」
「あっ――厚志」

かつて何度となく口にした呼び名ではなく。
ずっとずっと、いつの日か呼んでみたいと願ったその名を、そっと声にしてみる。

それはようやく。
ようやく、同じ場所に立てている証のようだった。

身も心もすべて、同じところで、二人、並んでいられる歓び。

「厚志」
「うん。そう。ゆっくり、二人で慣れていこうよ。ね?」
「厚志…」
「そのまま、抑えたり、逆らったりしないで、ありのまま、ただ僕を信じて任せてみて?」

聞かされた作法や心得の数々より、それは確かに間違いなかったようで。

「何も我慢したりしないで。僕のことだけ考えて? 僕のことだけ感じて?」
「厚志…」
「そう、僕の髪なら、好きに掴んでくれていいから。まぁ、ハゲるほど引っ張られるのは、ちょっと困るけど。うん、そのときは僕の身体にしがみ付いてもらいたいかな。爪を立ててくれてもいいし。ほら、舞も知ってのとおり、僕は意外と丈夫だからね」

事実、相当な力を篭めてしまった気がするのに、彼には一向に苦にならない様子だった。
それどころか、ひどく勝ち誇った顔にすら見えたのは、さすがに目の錯覚でしかないのだろう。

「今はただ僕のことだけ想って? そうすれば、舞がまだ知らない、そう、僕と舞とでしか辿り着けない高みを見せてあげる。だから、二人で一緒に行こう?」

不意に舞は得心した。

何も驚くに値しない。話は違って当然。
彼の分析こそが、ことの真理なのだと。
聞きしに勝るこの激しさは、カダヤだから。
めくるめく、この甘く狂おしい感覚がもたらされるのは。

そして、言われたとおり。
絢爛舞踏のステップよりも鮮やかに、まだ見知らぬ世界へと連れていかれたのであった。