(遠坂×田辺)
それは、遠くに懐かしい我が邸を眺めていた時のことだった。
今や紳士の端くれとして認められる父だったが、産業改革の一端を担ったなどと自負したところで、その事業は、本来、世間に顔向けなど出来ぬ内容だった。
発展という言葉の裏で、一体どれほどの自然が穢されたことだろう。
それは、そこに住まう人の身も心も蝕みつつあった。
現に、それが元で娘の健康が損なわれることになろうとも、それでも、成り上がりの新興紳士は、その富にしがみつく能しか持たず、堕ちるところまで堕ちてゆくばかりだった。
そんな金の亡者という、世にも醜い唾棄すべき存在と成り果てた父を捨て、私は清廉なる新天地を求めた。
そんな私にとって、あの男の言葉こそ真理のように聞こえた。
卑しき人間の強欲さを嘲笑う美しき存在に見えたのだ。
そうして、私は自らの意思で人間であることを放棄した。
己を更なる高みへと近付けるべく。
私は新たなる自分を手に入れ、救済を施す神の代行者にでもなった気分でいた。
神など、父を捨てるよりも、とうの昔に忘れた存在だったが。
彼女たちに与えるのは穢れなき次の世界への招待状。
そこは闇の世界ではない。
そこにこそ真実の光は存在し、耿々たる世界こそ、人の心を巣食う暗い闇に覆われている。
しかし、そんな見せかけの光に眩んだ目には人間が犯した過ちなど何も映らないのだ。
そう信じていた。
そう信じていながら、しかし、私は妹をこちらの世界へ連れ出すことが出来ずにいた。
今の私ならば、患う妹のその苦しみも容易く取り去れる。
だが、病に臥せるようになってからの妹は殊のほか陽の光を恋しがるようになっていた。
小康状態が続く今、こちらの世界に連れ出すのは酷だろうか。
今しばらく、陽の下の生活を送らせてやるべきだろうか。
人間の世界は、希望という名の偽りの光にあふれているが、だが、太陽の光そのものに毒がないことは私とて否定はしない。
家への未練など、私には微塵もない。
穢れるばかりの人間の世にも興味はない。
その世界に燦々と降り注ぐ陽の光を懐かしむような気持ちもない。
俗世への心残りはたったひとつ、妹のことだけだった。
その妹にとって何が一番の救いになるのかを思い悩みながら、私は月明かりの下、捨てた家を眺めるのだった。
――だから、これは偶然のことなのだ。
彼女を最初に見たのは、そんな中でのことだった。
彼女に目をつけたのではなく、ただ、彼女が不運に見舞われた瞬間をたまたま目撃してしまったに過ぎない。
最初は突然の落下物の被害に遭う瞬間だった。
次に見かけたのは理由なく眼鏡が落ちたところだった。
それだけならまだ良いものを、どうしたわけか運悪く踏み付け、原型を留めぬ無残なことになっていた。
そんな風に、あの青い髪を見つけると、次の瞬間には何かしら突発事故が発生するのだ。
人間からすれば、十分、特異な存在となってしまった我が身ではあるが、ある意味、それ以上に不可思議としか言えぬ不幸に遭遇する少女。
いつしか、彼女のことが放っておけないような気がした。
いつ、また、どんな目に遭うか知れない。
この身体を手に入れてから、心配という感情を伴って想う人間は、妹以外では彼女が初めてだった。
妹以上に、手を差し伸べてやりたい気にさせられた。
彼女に降りかかる不幸を払ってやりたいと思った。
妹とは違い、事故なら何とか防ぐ手立てもあると思えたからだろう。
だが、この身は無闇に人に近付くべきではない。
遠くから見守るだけのつもりでいたのだが、気付けば、己自身が彼女ともども、その不運に巻き込まれてしまっていたのだ。
今、振り返ってみても、何故、自分が巻き込まれたのか原因不明なのだが。
こうして、否応なく彼女と顔見知りとなってしまった。
だから誓って、これは全くの偶然の産物なのだ。
そして、私は知ることとなる。
彼女が、この止め処ない不運を不幸とは思っていないらしいことを。
もちろん、彼女にも嘆くことはある。
決して裕福とはいえぬ生活を更に逼迫させる不運の連続に、家族を思い遣っては悩んでいた。
だが、それでも世を儚むようなところはまるでなかった。
拗ねることなく、彼女はまた明日に小さな希望を託し続けるのだ。
なんと豊かな少女なのだろう。
そんな心に育ててくれる両親を持つ彼女が羨ましかった。
清貧を謳わない正直さも好ましかったが、彼女が夢見る額のあまりのささやかさが微笑ましかった。
何もかもが控えめながら、けれども、いくら大金を積もうとも得難い穏やかで温かな日常。
そこで、彼女はその笑顔を絶やすことなく慎ましく暮らしていた。
私は初めて知った。
この世にはこんな人間もいるのだと。
強欲に塗れる父を見るのが疎ましかった。
そんな父の存在を許す欺瞞に満ちた社会も許し難かった。
だから、私はこの穢れた世界を捨てようと決意した。
見果てぬ夢を追い、人間であることも止めた。
そうして、世界を制裁するかのような気分で、今の自分を選んだのだ。
だが、それは本当に正しい選択だったのだろうか?
彼女の持つ健やかさこそ、私が望んだものだった。
しかし、彼女は否定したその世界の住人なのだ。
なんと驕慢だったのだろう。
人の世を否定出来るほど、私は広く世界を見てもいなかったのに。
自分だけは高潔で在りたかった。
父のように身を貶めたくはなかった。
その一心で、私は汚いものに背を向け、ただ、そこから逃げ出したに過ぎない。
卑怯にも、もっともらしい口実を携えて。
――ああ、そうか。
ようやく私は気付く。
だから、妹をこの世界へ連れ出すことも出来ずにいたのだと。
世の理に背く忌まわしき性を正当化するため、それを救済と偽り、何人もの乙女を殺めた。
私とて、詭弁を弄して生きているのだ。父と同じく。
そして、彼と変わらず、私にもそれを止めることが出来ない。
この身体では、人を糧する以外に生きる術を持たないのだから。
気付きたくなかっただけなのだ。
己とて、とうに穢れきっていた。
単なる偽善者――いや、それ以下のおぞましき存在へと身を貶めていたのだった。
こんな自分では妹に顔向け出来ない。
こんな世界に妹を引き摺りこむことなど出来るはずがない。
たったひとりの妹に、人の生き血を啜って永らえる生き方など、どう教えようというのだ。
だから、私は、邸をただ眺めることしか出来なかったのだ。
何故、もっと早くに彼女と出逢えなかったのだろう?
そうすれば、陽の光の下で彼女と温かい生活を送れたかもしれない。
人であれば、すぐ傍から、妹を励まし続けていられただろう。
心優しい彼女なら、妹ともすぐに打ち解けてくれたに違いない。
あの男に会うより先に彼女と出逢ってさえいれば、そんな夢のような世界が実現していたかもしれなかったのだ。
だとすれば、私が人の世界を裏切るようなこともなかっただろうに。
そして、私はそんな自分に嘲笑する。
いつだって、私は、こうやって、ただ運命を恨むことしか出来ない矮小な男なのだ。
それなのに。
彼女は笑ってくれる。
その命を奪おうとする忌むべき存在の私に向かって。
そして、こうも言うのだ。
「昨日よりも今日よりも、明日はきっといい日。貴方と一緒の明日がこの先、永遠に続くのなら、たとえ人ではなくなっても、私は幸せになれると思うんです」
――それは女神の如き言葉。
解ってないわけではない。
家畜で代用は出来ないのか、などと訊いてくるくらいなのだから。
人でなくなることがどういうことなのかを解っていて、それでも、彼女は私に寄り添おうとしてくれるのだ。
そして、彼女は、たとえ闇の世界に身を堕としても、他の誰かを傷つけずに済む、そんな未来を望むのだ。
それが、どれほどの苦痛を伴うかも承知の上で。
それでも、私のために、私を想い、その悲壮な覚悟は何でもない瑣事であるかのように、笑顔の向こうに押し遣って見せるのだ。
そんな心優しき少女を、私は、背徳の世界の中を永遠に流離わせようというのか?
陽射しの下で柔らかく微笑む姿を奪おうというのか?
誰よりもそれが似合う彼女なのに。
そんなこと許されるはずがない。私が、それを許してはならない。
誰よりも彼女を想えばこそ。
理性も感情も、彼女の人としての生を願いながら、しかし、今の私の本能が、それを許してはくれない。
いっそ、今この瞬間、この身が灰に還れたら、どんなに幸せだろう?
ああ、この世で最も罪深きは我が存在。
貴女は、私に触れさせることなど許してはならないのに。
微笑みかけることすら、許すべきではないのに――
「――気がつきましたか?」
ぼやけた視界に青いおさげが飛び込む。
「……田辺、さん?」
不安げな彼女の顔が一瞬緩む。
「ああ、良かった…大丈夫ですか?」
「…えーっと、私は…?」
「ごめんなさい。…その、金たらいが落ちてきて、それが私ではなく遠坂さんの頭の上に…ほんとにごめんなさい!」
そう言って、こちらが恐縮したくなるほど、彼女は何度も頭を下げた。
その勢いのまま激しく揺れる三つ編みがいじらしい。
そして、私はふと目を止めた。
「田辺さんこそ、怪我されたのではないですか?」
「え?」
「首筋。赤くなってますよ」
「えっ!」
弾かれたようにそこを手で押さえ、彼女は耳まで赤くした。
「あ、あ、ああの、えっと、これは、その、ご、ごめんなさいっ」
「…?」
普段以上にしどろもどろな彼女は視線も忙しなく泳がせていた。
「ご、ごめんなさい、こ、ここ、これなら平気ですから、ほんとに。でも、だから、遠坂さんが金だらいの下敷きになってしまって…でも、ほんとに私は何でもないんです。遠坂さんが忘れてるなら、私も忘れますから、だから…」
「田辺さん?」
そんな彼女に私は頭を傾げた。
「あの、田辺さん、忘れてるって私は何か――…」
訊きかけて、突然、記憶が甦った。
「遠坂さん? あっ! もしかして、頭を打ったせいで吐き気がするとか!?」
思わず口元に手を遣り押し黙る私に彼女が血相を変えた。
「いえ、そうではなく……」
思いきり罰が悪い気分で、ちらりと彼女を伺う。
「痛恨です……そうでしたね。やはり神様に見られていたということでしょうか」
「あっ、あ、あ、あの――その、ごめ…」
「謝らないで下さい。これは私のせいですから」
情けない声で笑うのが精一杯だった。
全くもって、私は何をやっているのだろう……。
彼女の言葉を受け流した報いだろうか。
「――あなたには神様がついてるのかもしれませんね」
時々、彼女に降りかかる小さな不幸。
だが、落下物は、こうして悪い虫を撃退するためにも降ってくるらしい。
「私が無理強いしようとした天罰でしょう。田辺さんが気にすることはないですよ」
「天罰だなんてそんなこと…っ! だって、私、イヤじゃなか…あ、い、いえ……あの、でも、その、場所はもっと別のところがいいな…なんて、な、なな、何言ってるんだろう。もう、やっぱりごめんなさい!」
「――どうかもう、謝らないで下さいませんか」
気の毒なくらい恥じ入っている彼女を抱き寄せる。
「……このくらいだと、大目に見てもらえるようですね」
と、思わず呟く私。
「そうですね。次は誰にも邪魔されないところを選びましょう。あなたもそれを許してくれるなら」
「は…はい…」
蚊の鳴くような声で頷く彼女がとても愛しかった。
それにしても、さっきの夢は……
ハロウィンイベントやら、産業革命やら。
ここ数日の記憶が見せたのだろうが、まさか吸血鬼になっているとは。
あれは、願望と葛藤?
妙に現実と続いた内容に、我ながら不甲斐ない気がする。
だが、私が彼女に酷い仕打ちをするようなことは断じてない。
いつも彼女が笑っていられる未来。それが私の希望なのだから。
ああ。
とはいえ、次もまた邪魔されたら、その時は本当に世界を恨みたくなるかもしれないな。
そんな不埒なことを胸のうちに仕舞い込み、今夜はまだ、ひたすら紳士でいることに決めた。