翌日、瀬戸口は司令室に呼び出され――、
一方、茜は食堂にいた。
「あら、大介。司令のところにいなくていいの? 瀬戸口君、もう司令室に行っちゃったわよ」
義姉の森である。整備班の差し入れを調理をしようと材料を運んでいたところ、茜を見つけたのだった。森は義弟を見て呆れた。この口ばかり達者なろくでなしの義弟ときたら、食堂のテーブルにパンやら飲み物を広げたばかりか、両足まで投げ出してすっかりくつろいでいたのである。
ろくでなしの義弟は、笑って手を振りながら義姉に答えた。
「あんな、狸と狐の化かし合いに付き合ってられねぇよ」
狸と狐がそれぞれ誰を指すかを想像して、森は思わず吹き出してしまった。
そういうわけで、周囲にとっては喜劇に他ならない善行と瀬戸口の対決だったが――、
当人達は至って真剣である。
固い表情で司令室に入室した瀬戸口。
対照的に、これ以上はないくらいの笑みで善行が迎えた。
「多忙のところ、急に呼び出してしまってすいませんでした。折り入って瀬戸口君に話がありましてね、茜君にも席を外してもらいました。まぁ一つ掛けて下さい」
「いえ、司令。このままで結構です」
「そんな。立ち話もなんですから、――どうぞ」
「いえ、結構です!」
強硬な瀬戸口の発言で空気が緊張した。
会って一分も経たないというのに、司令室の窓はヒビでも入りそうな勢いだった。
なにしろ、芝村が来て、まだ二日目である。
瀬戸口としては一切警戒を解くつもりはなかったのだ。命令か、指導か、忠告か、善行から抑圧的な言動を受けるだろうという覚悟でこの場に臨んでいる。不愉快になるつもりがすでにあった。だから警戒どころか、すでに喧嘩腰である。
「さきほど、司令も言われましたが、”多忙”ですので、出来ればこのままで話を伺いたいと思います。用事はなんでしょう、なければ仕事に戻らせて頂きたいと思いますが」
言うことのことごとくが、善行にとっては可愛いどころではない。
――しかし、そこは海千山千の善行である。
眼鏡の位置を直し、余裕の笑いを浮かべた後、いや瀬戸口君は勘違いをしていますね、とやんわりいなして見せた。そして、今日きてもらったのは他でもないのです、と本題とは全く無関係な話題を打ち上げた。さらに加え、瀬戸口君の日頃の活躍は万人が認めるばかりです、などとこそばゆいばかりの話を差し出した。
善行はそうやって、瀬戸口の警戒をタマネギの皮のように丹念に削いでいった――。
「あ、なるほど。そうだったんですか」
そう瀬戸口が言って、ソファに腰掛けて、勧められるまま紅茶を口にする頃には、すでに善行の術中にはまってしまったと言える。どんなに瀬戸口が賢くとも、そこは善行の年の功が優っていたのだ。
かくして、話は完全な善行ペースで展開されていった。
居心地のいい空気に、すっかり瀬戸口も警戒を解いてしまった。
そして――。
(頃合いや、よし)
善行は自信を持って本題を切り出すに至る。
――もちろん、3号機操縦者の任命受諾の件である。
「芝村さんのこと。わたしとしては瀬戸口君に引き受けてもらえると安心なのですよ。どうでしょう、引き受けてもらえませんかね?」
瀬戸口の緩んだ表情が、一瞬にして硬化した。――しかし、もう遅い。
和やかな世間話のなかで、善行が懸命に蒔いていた毒の種が芽吹き、ゆっくりと蔓をのばして瀬戸口の良心にからみついてきたのだ。
「司令、わたしも芝村のことは憂慮しています」
そう、会話の中で瀬戸口は言っていた。言ってしまっていた。正確に言うと、善行によって巧みに誘導され、言わされた。さらに――、
「5121小隊でわたしに出来ることがあれば」
そんなことさえも瀬戸口は言っていた。言わされていた。
瀬戸口の体温がギュンと下がっていく。
(しまった)
――今さら、それらの言葉を翻せない。
会話で何の気なしに言った瀬戸口の言葉のことごとくが、自身を拘束する鎖に変わった。何も口に出せない、そんな状態になってしまった。言えば、即座に善行に矛盾を突かれ、突かれれば、ますます不利になる――。
これが数少ないカードしか持ち得なかった善行の、難攻不落の瀬戸口を陥落させるための唯一の戦法だった。実際、それに瀬戸口はまんまと引っかかってしまったのである。
(逃がしはしませんよ)
ここで追撃の手を緩めるような男では、善行はない。
「瀬戸口君でないと駄目なんですよぉ」
砂糖のように甘い声で言いながら、煎れたての紅茶を初々しい少女のように瀬戸口のカップに足す善行。なりふり構ってはいられなかった。そして、それは効果的な攻撃でもあった。今の瀬戸口には、何でもない善行の声が美女の語る以上に甘美な声に聞こえていた。
(いっそ、司令の言うとおりにしてしまおうか)
瀬戸口の心がぐらつく。余人であれば、滝川などであれば、心の声の導くまま従ったに違いない。
――だが
瀬戸口は、滝川とは違うのだ。
(司令の目論見はそういうことか。俺を三号機パイロットに仕立て上げるつもりか)
考えることのできる英知があった。混乱せず、冷静になれる余裕があった。
しかもその上に、
(手のひらの上で踊らせるつもりか、気にくわない)
不屈の胆力があった。何者にも縛られないという強い信念があったのだ。
それらが瀬戸口の性格の根幹を為している。天性の天邪鬼であり、反骨精神の持ち主なのである。
(何者も俺を縛ることは出来ない)
――瀬戸口は絞り出すように言った。
「司令。しかしながら、お断りします」
言うにあたって、瀬戸口はこの上ない悲痛な声を演出して見せた。さらに、芸達者なことに苦悩の表情も浮かべて見せた。これができれば、後はもっともらしい断る理由をくどくどと述べ立てればよいだけだ――。それだけで、善行の張った良心の鎖に対抗するには充分である。瀬戸口だから、それができる。
善行の額に皺が寄り、ピタと手が止まった。
(ここで、それですか。さすがは瀬戸口君、一筋縄ではいきませんねぇ)
すっかり仕留められたもの、と善行は思っていたのである。
ならば、負けじと今度は善行が、力一杯悲しそうな顔をして見せた。先だっての表情はもうどこかに消えてしまっている。今にも泣き出しそうな顔で言ってのけた。
「瀬戸口君に断られれば、わたしはどうすればいいでしょうか?」
――もはや司令室は、二人の名優が思い思いに演じる劇の舞台となり果てた。
善行の鎖がキュッと瀬戸口の良心を絞めにかかれば、スルリと瀬戸口が抜けて見せる。
そして、善行の掛け声に応じて踊る舞子のように、瀬戸口は華麗に舞って見せた。もう、どのように善行がアメとムチで縛ろうとしても、瀬戸口の袖一つ触れることはできない。次第に善行の出来の良かった鎖も錆が浮かび、虎を捕らえるほどには役に立たなくなってきた。
――劇の終演を告げるように、ピシャリと瀬戸口が言った。
「それでは、司令。お断りさせていただきましたから」
「いや、瀬戸口君。あのですね、話はまだ…」
「お断りします」
とりつく島もない、とはこのことだった。
(失敗だったか)
善行は瀬戸口で行けると思ったのだ。
瀬戸口の資質に不足はない。引き受けてくれさえすれば、それなりに隊員間の芝村憎しの感情を和らげてくれたに違いない。
何より、瀬戸口自身も引き受けて損はなかったはずだ。
芝村は女性だったし、見目も悪くなかった。見境のない女たらしである瀬戸口が、口説くのに格好のポジションを獲得できる機会を逃すはずがない、とそう善行は踏んでいた。
――しかし瀬戸口は、善行が思っているほど、見境のない女たらしではなかった。
実はまだ、もうちょっと計画性のある、見境のない女たらしであったのだ。
芝村を得ようと思えば何人の女性が口説けなくなるか、本能的にではあったが、計算が出来ていたのだった。
「司令、過分にお認め頂きまして大変恐縮でした。用件はこれで終わりでしょうか。それでは失礼いたします」
逃げるように、というか実際、逃げたわけだが、瀬戸口は司令室から足早に立ち去った。善行は、ため息をついて、がっくりと椅子に腰を下ろした。
少ないカードで善戦したものの、善行の完敗であった。
やがて、日も暮れる頃になって――、
「司令、よろしいですか?」
司令室の扉前から、茜だった。
食堂で良い加減に義姉をからかった後、町内や学内をぶらりぶらりと歩いて回り、もういい加減、狸と狐の化かし合いも終わっただろうと思って司令室に来たのである。
入ってもいいですよ、との疲れ果てたような善行の声を受け、茜が扉を開けて入ってみると――、
「茜君。さすがのわたしも、今日は疲れましたよ」
善行はソファで横になり、グッタリとなっていた。
(こりゃあ、さては負けたな――)
茜でなくても誰が見ても一目瞭然である。
「負けました、瀬戸口君に。追いつめた後、人事権もちらつかせたんですが、好きにして下さいとまで言われたら、もうわたしとしては――」
(打つ手がなかったのだな)
茜としては相手が瀬戸口では駄目だろう、と予想していたこととはいえ、こうまで弱った司令を見ていると同情する心も湧いてくる。
「お休み下さい、司令。わたしの方でも事後の案は練らせて頂きます。一朝一夕に決まる話でもないでしょうから、今日のところは…」
「いや、それがですね」
急に息を吹き返したように、善行がムクリと起きあがった。
「決まるには、決まったのですよ」
「はぁ?」
「いえ。その芝村さんの相棒になる、三号機操縦者ですよ」
「はぁ。決まった、のですか? いったい誰に?」
茜は驚いた。そう簡単に決まるものでもないし、安直に決めていいものでもないだろう。善行は信頼のおける上司ではあるが、疲労で思考能力が衰えてしまったのではないか――、とさえ茜は思った。
「いや、あのですね。もう瀬戸口君との論争に疲れ果ててしまって、さすがのわたしも司令室で惚けていたのですが…。そこに、有り難いことにですね。”司令、昼食はまだじゃないですか? 多めに作りましたので、もしよろしければ…”と、食事を運んでくれた人がいましてね」
「はぁ」
「そこで思ったのですよ。やや性格に弱さがあるものの、この気遣いと優しさ。この人ならば、芝村と小隊の架け橋になってくれるのではないかと」
「はぁ」
なんとも安直ですねぇと思いながら、茜は思考を巡らした。
(多く作りすぎた、ならば食堂か? あそこにいたのは誰だったか…。性格に弱さ。まさか、うちの姉? …あの何事につけても不器用きわまりない義姉が、ふらりと司令室にやってきて、身の程も知らずに引き受けてしまったのではあるまいな)
「司令、まさかと思いますが、うちの愚姉ではないでしょうね?」
「何言ってるんですか、違いますよ。森さんは技師じゃないですか。ああ、なんでも、森さんがひとりで調理していて大変そうだったから手伝ったと言ってましたね。そうしたら、お礼に森さんから食事を分けてもらったと。でも、自分はサンドイッチを作ってきていたから、せっかくだからわたしのところに持ってきたと――」
「いったいぜんたい誰なんですか、それは?」
「茜君も勘が鈍いですね。速水君に決まっているじゃないですか」
(なんだ、速水か。それなら…)
「――えっ? 速水?」
「そうです。性格に弱さがあるものの、彼の優しさは貴重です。わたしの苦境を知ってか知らずか、わたしが頼みますと言ったら、二つ返事で引き受けてくれましたよ」
(そんな馬鹿な)
「えっと、司令。失礼ですが、夢を見ていたわけではないですよね」
瀬戸口が断ったものを、なんで速水が受けるものか、と茜は考えている。
「何言ってるんですか。あなたより年をとっているとは言えども痴呆が入っているわけでは無いですよ。夢と現実の区別ぐらいつきます」
はぁ、と茜は生返事を返す。どうやら、速水が三号機パイロットを受諾したのは事実らしい。
――しかし、なぜ。
受けて利益になるものは何もない、気苦労と身の危険が増すだけだ。速水がなぜ、すんなり受けたか茜には理解できない。
司令に恩を売るためか? ――ありうる。しかし、それにしてもメリットよりもリスクの方が大きすぎる。それが分からないほど、速水は馬鹿ではなかったはずだ。
――ならば、なぜだ?
――なぜ受けたのだ?
苦悩の表情で考え込む茜であったが、一方、善行はと言うと、一仕事終わったという感じで緊張感の欠片もない。
「速水君、彼はいいですねぇ。好青年です。小隊内の一服の清涼剤です」
などとのたまっている。苦境を助けてくれたものだから、善行もべた褒めである。しかし、善行の速水に対する認識は従来からこのようなものであった。
――少し気の弱い優等生。
ぐらいのものであったのだ。当然、茜のそれに比べると正確な認識ではない。しかし、それは善行が盲目だからでも無能だからでも無かった。茜は知っている。
(速水が司令に対してだけは、そう見えるように仕向けているからだ)
いかな善行といえど、速水ほどの者に化けられては容易には見抜けない。また、見抜く必要もない。司令に必要な能力は、そのような小さいことではなく、大局を見通すことであるからだ。小事は、――参謀である自分が仕切ればよいことだ、と茜は思っていたのである。
「茜君は、速水君では不満ですか? 一応、速水君の異動によって生じる穴は滝川君を当てようと考えているのですが」
茜はなるべく平静を保とうと努力しながら言った。
「いえ別に、――最善の選択だと思います」
「良かった。それでは、明日からこのシフトで行くよう発表することにします」
意気揚々と頷く善行。茜はそのときも、そして、しばらくしてからも、ずっと――なぜ速水が受諾したのかと言う疑問に悩まされることになる。
茜がその疑問を解き明かすのは、これより一ヶ月後のことである。
その衝撃の真実を知ったとき、あまりのことに、茜は半分呆れ、半分むかついた。
いくらなんでもそれはあんまりだ、と茜は思ったのである、が――。