田代香織。
それは入隊したばかりの芝村舞にとっては、特に親交がある人間ではなかった。不良っぽい立ち居振る舞いと派手に染めた長髪が印象的な女、それだけだった。
芝村は、一度だけ田代と話をしたことがある。
それは、小隊の戦果を祝う集まりがあったときだった。芝村は特に興味もなかったため集まりには参加しなかったが、戦車の調整をしにラボに向うとそこに田代がいた。
田代は仕事をしていたわけではなかった。とどのつまり、いつものようにさぼっていた。しかし、その日だけは誰かとつるんで馬鹿騒ぎをしていたわけではなく、ハンガーの隅っこで大人しく椅子に腰掛けていた。両手をポケットに入れ足を組み、うつむいたまま口笛など吹いていたのだった。口笛は、どこか悲しげな、それでいて懐かしいメロディだった。
芝村は田代に声をかけることをしなかった。田代の前を無言で通り過ぎ、いつもそうしているように黙々と戦車の調整を始めた。田代も口笛を吹き続けるだけで、芝村に話しかけることはなかった。終わることのない田代の口笛は、何度もリフレインを続け、深夜のハンガーに響き渡り続けた。
明け方近くになる頃、調整を終えた芝村は立ち上がった。用事は終わった、後は帰るだけだった。そのとき初めて芝村は田代に声をかけた。それも素っ気なく、先に帰るぞ、とだけ。すると、ピタリと口笛がやんだ。田代も立ち上がる。芝村に言った。
「俺も帰る」
二人連なって階段を降りた。降りたところで分かれて帰途についた。
それだけだった。――それが田代香織と芝村舞が唯一交わした会話だった。
しかし、芝村はなぜか田代のことが気になった。あの寂しい口笛が忘れられなかった。だから、自分の部屋に帰るなり睡眠時間を削り、情報網を使って田代のことを調べた。
そしていろいろなことを知った。田代は従来から素行が悪く、素行が悪かったために前に所属していた部隊では前線に出る機会を逸していた。そして、それがために所属していた部隊で、田代だけが生き残ることができた。――前線に出た田代のクラスメイト達は、一人残らず幻獣に殺されたのだった。
その殺された日こそが、暦にして1年前の今日だった。
芝村の脳裏には、暗いハンガーの隅でひとり口笛を吹いていた田代の姿が焼き付いている。芝村は思う。あの口笛は、奴なりの友を迎える歌だったのか、生き残った自分を責める歌だったのか。
補給終了まであと3分――
「理由はどうあれ、田代はまだ生きている。生きている以上、今回のような命令違反は咎められ、厳正な処置を受けるべきであろう」
回りくどい言い方は芝村の常だが、要するに田代を助けに行きたいということだった。
芝村は目をむいて速水を見た。是か非か――問うている目だった。
一方、速水は答えない。再び取り戻した余裕の笑いの上に、取り繕ったように困った表情を浮かべて見せている。
「答えぬか。命が惜しいのか? ならば咎めはしない、戦車から降りるがいい。今までもお前の力は必要なかった。わたしだけで行けばいい話だ」
まぁまぁという顔をして速水が答える。
「分かっていると思うけど、武器がないよ。虎の子のミサイルを使い果たしてしまっている。ライフルの弾丸が少しあるだけだ」
速水のそれは、どちらかと言うと駄々っ子を諭すような物言いだった。対して、返す芝村のそれはまさに駄々っ子の物言いである。
「ナイフがある。腕もあれば、足もある。それに田代を救出すればすむ話だ。重火器が必要ない救出を考えればいい」
速水は考え込む振りをして見せた。
「そうだねぇ。芝村の言うことももっともだ。ちょっと考えさせてよ」
その緊張感のない返答を聞いて、鋭敏な芝村はいちはやく気付いた。
「速水。お前、まさか、時間稼ぎをしているのではあるまいな」
「…あれ。わかっちゃった?」
怒気を露わにして、芝村はゆっくりと腰の拳銃に手をかけた。
「速水、返答しろ。何を企んでいる? 熟考して十秒以内に答えろ」
要するに、返答しなくても撃つし、返答しても返答内容次第では撃つ、ということだった。
「怖いなぁ、やめてよ」
「わたしは本気だ。時間は黄金より貴重だと言ったはずだ。お前と解答の出ぬ問答を続けるつもりはないのだ。行くか、行かぬか、それとも建設的で適当だと思われる意見を吐くか、さぁ答えろ」
拳銃を抜いて、速水の額に照準を合わせた。
(やはりこの男、只者ではないな)
速水は顔色一つ変えなかったからだった。
「正直に言うね。僕はね、戦わないといけないんだ」
「――? わたしと一緒に行くということか」
「違うよ」
「なら、どういうことだ」
撃鉄を引く芝村、しかしやはり速水の顔色は変わらなかった。ぼんやりした表情のまま、速水は、わかってくれるかなぁ、と前置きしてから言った。
「僕は、芝村や他の人たちと違う世界で常に戦っているんだ。芝村が戦っているとき、僕の戦いはすでに終わっている。しかし、僕が戦っているとき、まだ芝村は戦いがあることすら感じていないんだ。もうすぐ、ここで、僕が僕として、僕でしか戦えない相手と戦わなければならない時間がやってくる。だが敵はまだやってきてもいない。だから芝村、もうちょっとここで待っていてもらってもいいかな?」
にっこり微笑む速水。理解のできぬ芝村には狂人の笑いにも思える。
「な…! 何を言っている。さっぱり意味がわからないぞ。わたしは、自分探しをしている子供の話を聞きたいのでもなければ、駆け出しの教祖の話を聞きたいのでもない。3号機パイロットとして、仲間の窮地を救いに行くかどうかの話をお前に聞いているのだ。答えろ!」
「もう、答えたつもりだよ」
「馬鹿にするつもりか。ええい、もういい」
芝村は拳銃の引き金を引いた。銃声が一帯に轟き渡った。
その頃、指揮車では――
「通信、入りました」
「わたしです。司令の善行です。聞こえますか、田代さん」
「…」
「聞こえていますよね、田代さん。いつものようにだんまりは勘弁して下さい。こちらの寝覚めが悪くなります。応答して下さい、お願いします」
「…なんだよ、うるせぇな。戦闘中に通常通信は御法度じゃなかったのかよ。司令自らが禁を破ったら下の者に示しがつかねぇだろ」
「いいんです。特例事項に該当しますから。意味は分かりますよね」
「ああ。撤退命令違反ではなくて、二階級特進ってことだろ。こっちはいい景色だぜ。右も左も幻獣だらけだ。今さら戻ってこいって言われてもどうにもならねぇよ」
「仕方ありませんね。田代さんが望んだことでしょう」
「違いねぇや。それで司令、何の用なんだい。死の間際の言葉を聞こうって趣味の悪いことじゃないんだろ」
「5121小隊及び友軍全て、安全圏まで撤退できました。すべて田代さんのおかげです。その一言が伝えたくて通信しました」
「くっ。粋なことをするなよな。目から汗が出てきちまうだろ。ありがとよ、司令。…くそ」
「みんなを代表して言いますね。田代さん、本当にありがとう」
「やめろってば、くそ。ああ、そうだ。そこに大介はいるかよ」
「いる。ここに」
「よう、大介」
「すまない、田代。俺が、俺がもうちょっとマシな作戦を立てていれば。気付いてさえいれば」
「バーカ。どんな作戦立てたって俺はこうしてたよ。悔しかったら負けない作戦をたてろ、ガキ」
「すまない、本当にすまない」
「なんだ、泣いてんのか。だからガキは本当にしようがねぇなぁ。いいか、これは仕方ねぇんだ、大介。どんな作戦立てたって負けはあるしよ、死ぬ人間は戦争じゃなくたっていくらでもいるんだからよ」
「すまない、すまない」
「俺はその点、望むような死に方ができる。俺にとって、死体が綺麗に残る残らないは関係ないんだ。俺のような半端者が誰かのためになって死ねる。それだけでいいんだ。いや、逆に死に場所を与えてくれて感謝すらしてるよ」
「田代…」
「いいから泣くな。男なんだからシャンとして立て。俺はお前のことが嫌いじゃなかったぜ。姉貴のあれが馬鹿だとか、滝川のそこが間抜けだとか、人のことを言いたい放題言う生意気なガキだったが、なんだかんだ言ってお前はそいつらのことを見放していなかった。俺には分かった。お前が憎んでいるのは、人ではなくて、人のなかに住んでるどうにもならねぇ愚かさなんだろうって。好きな奴ほど、悪い部分をメッタメタに言ってしまうもんだからな。そう言う奴は俺は大好きさ。人のために何か言える奴ってあったけぇ奴だって思わねぇか? 大介、きっとお前は強くなるよ。強くなって、きっとそういうものと戦う男になる。きっといい男になるんだろうなぁ。だからな、俺は先に行くけど、お前はもうちょっとメシ食って大きくなってからこい。来るのはまだはええぞ」
「田代、死ぬな! 死なないでくれ。俺は、お前に死んで欲しくないんだ!」
「なんか、大介。お前と話してると死ぬのが惜しくなってくるから怖いよ。いや、多分誰と話してもそうなるんだろうけどな。いいよな、ダチって。あったかくてよ。だけど、俺はそいつらを裏切ったんだ。だから、行かなきゃならねぇんだ。すまない、大介。もう切るぜ。一匹、幻獣で斥候みたいなのが近づいてきたしよ。そろそろおっぱじめようかってことなんだろうな。じゃあ、元気でな、大介! メシ食えよ」
「田代ー!」
「あばよ」
――通信途絶。