がらかめ劇場 第一幕  (サホ)

一見、少女と見紛うような可愛らしい容姿ではあったが、それ以外は、人の目にはひどく平凡にしか映らない少年だった。
両親は既になく、小さな食堂「味のれん」のしがないアルバイト店員。
ぽややんとした気立ての優しいこの少年の胸に、身を焼く尽くさんばかりの情熱が芽生えようなど、誰が予想出来ただろうか。

――そう、かの偉大なる名女優に見出されるまでは、当の本人ですら気付かなかったのだ。

「戻りましたー」
「速水君、お帰りなさい。いつも私の分も買い出しに行って下さって、ありがとうございます」
「ううん。いいんだよ、そんなこと」
速水はアルバイト仲間の青い髪をおさげにした少女に向かってにっこり笑った。
「田辺さんが危ない目に遭うよりいいしね。いつも眼鏡が壊れるくらいで済んでたらいいけど、怪我でもしたら大変だもん」
「ごめんなさい。落下物にはいつも注意してるつもりなんですけど…あ、そうそう。速水君、これを…」
差し出された1枚の紙切れに、速水は首を傾げた。
「速水君の買い出し中にお客さんに頂いたんです」
「あっ! これ、あの『椿姫』のチケット?」
それは豪華キャストをずらりと取り揃えた、今、話題の芝居のチケットだった。
「はい。私の眼鏡が割れたのはその方のせいじゃなかったんですけど、その場に居合わせたばかりに、ひどく責任感をお感じになったみたいで」
「え…? 僕が出てた間に、また眼鏡割れたの?」
「ええっと、はい、実は…」
田辺は苦笑いを浮かべつつ、話を続けた。
「それで、そのお客さん、弁償しようとまでなさって。私はそのご厚意だけ有難く受け取ろうとしたんですけど、その方がそれじゃあ気が収まらないから、って。それで、せめてもの気持ちですと、このチケットを下さったんです」
「へぇ、そうなんだ…。うわー、すごいよ、これ、SS席だって!」
「ええ。だから、速水君、どうぞ」
「え?」
「頂いたの、この1枚だけなんです。でも、私ひとりがお芝居観るなんて、ちょっと…。だったら速水君に観てもらって、それをまたうちで披露してもらった方が私も家族のみんなと一緒に楽しめると思うんです。だから、私の代わりに観に行ってくれませんか?」
「えっ、でも、そんな…。田辺さんが貰ったのに僕が行くのは悪いよ」
「そんなことないです。私はその方が嬉しいですから。それに、速水君、このお芝居観てみたいって言ってたじゃないですか」
「それはそうだけど…。でも、ほんとにいいの?」
「はい。その代わり、うちで、どんなお芝居だったか教えて下さいね」
「もちろんだよ! そんなことでいいなら。…ほんとに有難う、田辺さん」

思いがけず、密かに観てみたいと願っていた芝居のチケットをこのような形で譲り受けたばかりか、本来、勤務時間にも関わらず、日頃の働きぶりもあって、店主も快く休暇を出してくれた。
こうして、当日、速水は期待に胸を膨らませながら、劇場へと向かった。
「なんか信じられないな――…」
劇場内に入っただけで、速水はすっかり感慨に耽ってしまった。
こんな風に遊びに出かけること自体、彼には滅多にないことだった。
日々、アルバイトをこなし、それで何とか生計を立てている彼にとって、店内でついているテレビを見るくらいが唯一の楽しみだったのだ。
それが今日はこれほど大きく立派な劇場で、豪華メンバー出演の舞台を観られるとあっては、興奮のあまり注意力散漫になっても、それは致し方ないことだったのかもしれない。

「――わっ!」
肩に受けた衝撃に、速水は我に返った。
ぼんやりしていたため、前方の人影に気付かなかったようだった。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
速水はぶつかった相手を気遣いながら見た。
「私は何ともない。そなたこそ、大丈夫か?」
「え、は、はい」
速水は半ば呆気に取られながら答えた。
背格好といい、年といい、そう自分と変わらなさそうな少女だったが、圧倒的なまでのその存在感は比べ物にもなかった。
「そうか。しかし、そなた、もう少し前方に注意せよ。…ああ、そなた、座席でも探していたのか? 更紗」
「はい、舞様」
「この者を席へ案内するがいい」
若いといっても、自分たちからすれば十分「大人」のその女性に向かって、少女は物慣れた様子で命じた。
「これはなかなか評判の芝居だ。存分に楽しんでくれ。――更紗、私は先に行ってる」
そう素っ気なく言い残すと、少女は迷いのない強い足取りで立ち去った。
「さ。お客様、お席に案内致しましょう」
「――あ、はい。すみません、お手数かけて…」
「とんでもございません。これがわたくしの仕事ですから」

(――あんな美人なお姉さん、はじめて見たなぁ…)
座席まで案内してくれた女性に、速水は少年らしい感想を抱いたが、しかし、彼の目には、あの少女の方が余程、鮮烈に映っていた。
(…なんか、すごい子だったな。態度といい言葉遣いといい…)
同じ年頃とは思えぬ威圧感。その表情も、とても少女らしからぬもので、近寄り難さを感じるほどだったけれども、もう少し眺めていたかったような気もする。
可愛さには欠けていたけれど、今思えば、顔立ちはとても綺麗だった気がする。
あまり正面から見られなかったせいか、揺れるポニーテールがやたら脳裏に焼きついて離れなかった。

そんなことを取り留めなく考えていた速水は、ようやく、周囲のざわめきに気付いた。
「…あっ!」
騒がれる理由はすぐに分かった。
(うわー、壬生屋未央だぁ…)
今回の芝居の主演女優、森精華の愛娘であり、幼くしてデビューして以来、天才子役の名をほしいままに活躍し、今や最も将来を嘱望されている清純派若手女優へと成長を遂げていた。
「子役デビューした時から天才って言われてたけど、あの子は珍しく、親の七光りだけじゃないもんね」
「そうそう。親以上に成長してるもんな。見た目は母親以上だし、演技力だって、あの年で相当のものだし。いやー、将来が楽しみだ」
そんな噂があちらこちらで囁かれていた。
テレビで見るよりも、ずっと楚々としていて、見るからにお嬢様然としていた。
派手な感じは受けないのに、しっかり華を感じる正統派和風美少女。
(それにしても、さっきから見る人みんな、僕なんかとは全然世界の違う人たちだよなぁ・・・)
そりゃあ、そうだよね。本当なら、僕なんかが観ることの出来ないスゴイ舞台なんだから。
もう、一生縁がないかもしれないな――。

そんな思いが、彼をますます駆り立てた。
幕が開けるなり、速水は、一瞬たりとも見逃さまいとばかりに、舞台を余すところなく食い入るように見つめていた。

実際、『椿姫』は評判に違わぬ見事な芝居だった。
ヒロインを演じる名女優・森精華を筆頭にした豪華出演陣に加え、演出も鬼才と名高い小野寺一が手掛けていたし、この舞台を企画したのが大都芸能とあっては、面白くないはずがないのだ。

誰もが、目の前で繰り広げられる素晴らしい芝居に魅了されていたが、一心不乱に舞台を見入っている速水の姿は、ある種、異様なまでの雰囲気を漂わせていた。

――しかし。
今、この劇場内で、唯一、芝居の真髄を知る、その黒づくめの女性には、この芝居に興味は示せても、心までは奪われることはなかった。彼女にとって、これは合格点を出せても、完璧な芝居ではなかったのだ。

彼女の冷静な目は、舞台上よりも、むしろ、斜め前に座る少年に誘われるばかりだった。

最初は、少女のような外見に注目した。肌の張りや艶具合も申し分なかった。
それが少年であることに、多少、惜しく感じたのも束の間、舞台への集中力が、少年のその面差しをすっかり変えていた。

それを目にした瞬間、雷にでも打たれたような衝撃が彼女の全身を貫いた。

ようやく、見つけたのかもしれない。

そう思わずにはいられなかった。

「――どうかしましたか?」
小声で訊いてくる家令に、彼女は不敵な笑みを返した。
「何でもないのよ、若宮君」
高らかに笑いたい気持ちを押し殺して、彼女はひたすら少年に見入った。
少なくとも、この少年の中には『紺碧天女』を演じるに相応しい情熱を持っている。
少々、演技力が足りずとも、それは鍛え方次第で何とかなるかもしれない。

たまには後輩の姿を見てやろうと、軽い気持ちでこの芝居を観に来ただけだった。
それが、偶然、以前より目を付けていたその娘の姿も確認出来て、それだけでも今日は十分収穫があったと感じていたが、これは、思いも寄らぬ大発見をしたのではないだろうか。

ああ、どうすれば、彼の演技力を確かめられるだろう――。

たとえ巷でどれほど評判だろうと、かつての名女優には、この程度の芝居など、もはやどうでもよくなっていた。
彼女の興味は、今やその少年にのみ集中していた。
もちろん、当の本人は、自分に注がれる熱い視線に気付くはずもなかった。
彼は、この大勢集まっている観客の中で、誰よりも、目の前の芝居に夢中だったのだから。

――少女のような可愛らしい外見を除けば、一見どこにでもいるような少年だった。
速水厚志という、この平凡な少年の中の秘められた情熱。それは彼自身、未だ気付くことのない、小さな小さな炎だった。
しかし、かの名女優「月影千草」は、それを見逃さなかった。

少年の中のその炎がやがて激しく燃え盛り、絢爛たる強い輝きをもって、世間を震撼させるのも、そう遠くない話だった。