がらかめ劇場 第二幕  (サホ)

『椿姫』を観てから、早三日が経っていた。
しかし、速水の胸に、あの芝居の興奮の熱が冷める気配は一向になかった。暇さえあれば、パンフレットを手に取り、あの舞台の世界に思いを馳せた。

さすがは最大手、大都芸能が企画する舞台だけあって、パンフレットだけでも豪勢な装丁だった。彼の僅かな稼ぎで購入するにはあまりに贅沢なその一冊を、今、こうして手にしているのは、これも重なった幸運のお陰だった。

舞台が閉幕して、客が一斉に帰る中、速水は魂を引き抜かれたかのように、席も立てぬほど茫然としていた。そこへ、不意に声を掛けられたのだった。
「――ねえ、君。気分でも悪いのかしら?」
驚いて顔を上げると、そこにはショートカットの美しい女性が立っていた。
「あ、いえ、違うんです。僕、ちょっと感動しすぎたみたいで」
「そう。そんなに芝居が好きなの?」
「え? うーん、考えたことなかったですけど、好きか嫌いかって訊かれると、好きかなぁ、やっぱり。でも、僕、舞台を観るのも今日がはじめてで」
「あら。とても集中して観てたみたいだったから、経験者なのかと思ったわ」
「ええっ!? まさか。演劇なんて、そんな…。子供の頃のお遊戯会くらいしかやったことないです」
「そう…。あ、ねえ、良かったら、これ差し上げるわ」
そう言って、女性は冊子を速水の手に持たせた。
「え、えっ?」
まごつく彼とは対照的に、女性は余裕の笑みを浮かべていた。
「パンフレット、もう買っちゃったかしら?」
「あ、いえ。その、欲しかったんですけど、ちょっと買えなくて…」
「なら、ちょうど良かったわ。ああ、遠慮しなくていいのよ。おねーさんからのプレゼント。ほら、私より、君みたいな熱心な観客が持っていた方がいいと思うのよ。きっと、私は持ってても、それほど読まないと思うから」
「そ、そうなんですか…? えっと、じゃあ、ご厚意に甘えて頂きます」
有無を言わさぬ微笑みに、速水はもう頷くしかなかった。
「ふふ。そんなに喜んでもらえると、私も嬉しいわ。じゃあ、またね」
「ありがとうございました」
速水は、立ち去る女性の姿を出口まで見送りはしたが、彼女の姿が見えなくなると、すぐに興味はパンフレットに移ってしまった。
(パンフレットまでタダで貰えるなんて、本当に運が良いいなぁ)
戸惑いは感じるものの、それでも彼は純粋に重なる幸運に感謝していたのだ。

――彼は全く気付きもしなかった。
その幸運は、仕組まれたものだということを。

「――どうでしたか?」
「ええ、うまく行ったわよ」
出口の向こうで待っていた家令に、女性は涼しい顔をした。
「小細工にも気付かれなかったわ。豪華なパンフレットのお陰ね。ふふふ。いいこと、若宮君。必ず彼の居所を突き止めなさいね。失敗は許さなくてよ」
「はい。――しかし、千草さんは…」
「忘れたの? 今の私は原素子。そうでしょ、若宮君?」
「はっ! すみません。つい…。で、素子さんは、本当にあの少年だと?」
「ええ。私の目に狂いがなければね」
「はぁ…」
不安げな顔をする家令をよそに、彼女は美しい顔を更に引き立たせるような笑みを浮かべた。
「ふふ。いよいよ、あの計画を実行に移せるかもしれないわ…!」
しおれかけていた情熱の花が、一気に咲き誇るかのようだった。
すっかり見慣れた気だるげな憂い漂う雰囲気も、この美女には似合いの表情だったが、しかし、今のこの精気に満ち足りた面持ち――それは「月影千草」全盛期の頃を彷彿とさせるものだった。
「不肖若宮、全力であの少年を調べましょう!」
疑問や不安も忘れ、若宮がそう請け合ってしまったのも無理のないことだった。

『椿姫』観劇から、この三日間、穴が開くほどパンフレットを眺めている割にはそこに盗聴機能付き発信機が取り付けられているとも気付かぬ速水に、よもや出口の向こうで、そのようなやりとりがあったなど、知るはずもなかった。

そうして、彼の知らぬところで、迅速かつ着実に計画は進められていたのである。

「――あ。いけない。そろそろ、田辺さん家に行かなくちゃ」
慌てて速水はパンフレットを閉じた。
昨日、突然、店主の都合で、今日は店が臨時休業することとなり、田辺の家で、約束だった『椿姫』の内容を披露することになっていたのだ。
田辺の住むアパートへ向かうと、何やら、白い煙が立ちこめていた。
「――田辺さんっ! どうしたの、また火事に遭ったの!?」
田辺の姿を見つけ、ほっとしたものの、速水の胸は心配で潰れそうだった。
「い、いえ。違うんです、速水君。火事じゃないんです。他の部屋の方が、煙で殺虫するタイプの薬剤を使ったそうなんですけど、使い方を間違ったとかで、ものすごく煙っちゃって」
田辺はけほけほと咳き込みながら状況説明した。
「なんだ、良かったぁ。びっくりしちゃったよ」
「ごめんなさい、心配かけて。…せっかく来ていただきましたけど、この分だと、うちに上がってもらうのは、ちょっと無理ですね」
「そうだね。こう煙ってちゃね…」
「あ、速水君! お天気もいいことですし、公園に行きませんか? あそこの方が、うちみたいな狭い部屋でやってもらうより、ずっといいですし。ね? そうしませんか」
その田辺の提案により、急遽、速水たちは公園へと繰り出すことになった。

「……」

それを電柱の陰から見つめる隆々とした体躯の男の姿があった。
殺気がそこに含まれていないのが不思議なほど鋭い視線を少年に向けたまま、彼はポケットから携帯電話を取り出す。

「――奥様、お聞きになって?」
「…若宮君。それはとうに捨てた遊びでしょ。どんなに懐かしんでも、あの頃はもう戻っては来ないのよ」
「すみません。思わず昔の癖が出てしまいました。…あの少年が公園に向かいました。こちらの思惑通りです」
「そう、良くやったわ。私も今すぐそちらへ向かいます。若宮君は彼らに気付かれないように監視を続けてちょうだい」
「了解であります!」

「――こちらです」
手招きされ、黒づくめの格好をした原がそっと忍び寄った。
彼らからはだいぶ離れた場所だったが、少年の声は僅かながらもきちんと届いていた。
「やはり、先日の『椿姫』を見せているようです」
「そうみたいね。ふふふ、声量はなかなかのものだわ」
目を輝かせて、彼女は少年を見守った。

速水は田辺一家以外の人間にまで見られているとも思わず、熱心に芝居を再現して見せていた。
それは、約束を果たすためという以上の出来だった。素人目には実に見事な一人芝居だった。
彼は役そのものになりきっていた。たとえヒロインであろうとも。

「――この椿の花がしおれた時に……」

(――っ!!)

少年の、左肩を引き気味にすっと花を差し出すその演技に、名女優「月影千草」が目を見開き、全身を打ち震わせた。
興奮の余り、息も絶え絶えになった原に、若宮は、一瞬、本気で彼女の身体の具合を心配したほどだった。

千の仮面を持つ子――
……ようやく、ようやく見つけたのよ…!

狂喜乱舞したい心を何とか沈め、彼女は努めて冷静に言った。
「…若宮君、もういいわ。邸に戻ります。早速、あれを探さないと」
「あれとは?」
「次の餌よ。次は『紺碧天女』の稽古中に使っていた足袋がいいと思うのよ。確かもう一足あったはずだわ」
「まさか、またあのおやじに譲るつもりですか?! 靴下なら、今日のために既に一足くれてやったではありませんか!」
「やだ、なぁに、若宮君。まさか、あなたまで、あの趣味の持ち主だと言うんじゃないでしょうね?」
「違います! ただ、ヤツらにまた千草さんの靴下をやるのが俺には我慢ならないのです!」
「背に腹は代えられないわ。あの子を手に入れるには、それなりの代価が必要でしょう? 次は前回よりもっと価値のあるものでないと」
「そ、それはそうですが…」
「ふふっ。私も本気を出させてもらうわよ」
無念そうに顔を歪ませたが、しかし、若宮には心酔しきっている彼女の言葉に逆らえるはずはないのである。
今日の味のれん臨時休業も、田辺の住むアパートの火事騒ぎも、すべて若宮が裏工作したのだから。
盗聴機から少年が『椿姫』を再現してみせると情報を得て、原が企てたことだった。

――翌日。
「ガラカブ定食1つ、お願い」
滅多に受けない注文に、味のれんの店主は客を見返し、声を上げた。
「ふふ。まだ覚えていて下さってるのね。なら、話が早いわ。ひとつ私と取引して下らないかしら」