夢のような幸運がいくつも重なった後は、また冴えない平凡な毎日――と思いきや、速水に待ち受けていた現実はあまりに惨いものだった。味のれん経営難のため、突然リストラされてしまったのだ。
「…でも、おじさんの言うとおりだよね。田辺さんがクビになったら、家族のみんなも大変になるし…」
その点、自分は天涯孤独の身。それに、自分がリストラ対象になったのも、それは自分が高く評価されてのことだった。店主は、敢えて彼の持ち前の器用さ強運さに賭けてみた、と言っていた。
どこでもやっていけるだろうと太鼓判も押してもらったが、しかし、これまでの人生、何とかそれなりに乗り切れたが、今回ばかりは速水も頭を抱えた。
「すぐに次の仕事が見つかるといいけど…」
独り言を零しながら、速水は図書館で新聞の求人欄と睨め合い――そして、ある募集に目を奪われた。
「――劇団5121…!」
「…うーん、交通費だけで結構使っちゃったなぁ」
淋しくなった財布の中に速水は苦笑いした。
しかし、あの原という女性に貰ったチップ――あの時はチップというには大きな額で恐縮しきっていたが、今となっては本当に有難い臨時収入だった。
「…あ、あった! ここが劇団5121か…」
目的地には着いたものの、何と言って中に入っていいものか悩んでいるところへ、一台の車が門前に横付けされた。
「ああ! 壬生屋未央!」
速水は思わず、電柱の影から遠巻きに眺めた。
「――では行って参ります」
後部座席に座る母、森精華に挨拶すると、彼女は凛とした佇まいを崩さず、門をくぐっていった。
「ここの劇団に通ってるんだ…。お母さんは大女優、亡くなったお兄さんも若手実力派の人気俳優だったし、お芝居もものすごく上手なんだろうなぁ」
壬生屋未央が通うようなところと思うと速水の足は更に竦んだ。
(…でも、せっかくここまで来たんだから…!)
彼女の後ろ姿を追うように、思い切って彼も敷地内へと足を踏み入れた。
「あのー、すみません、僕、新聞の団員募集の広告を見て来たんですけど…」
受付でおずおずとそう切り出すと、入団申込書を手渡された。
「じゃあ、これに写真を貼って提出後、入団テストを受けて下さいね」
「え? 入団テスト?」
「筆記に歌、パントマイム、舞踊、それから面接です。それにパスされたら、入学金と月謝をお支払いいただきます」
「あっ、あのっ、それって、全部でいくらくらいなんですか…?」
恐る恐る尋ね、速水は返ってきた答えに蒼白になった。
(……ダメだ、僕には二十七万だなんて、そんな大金払えない……)
力なく、ふらふらと受付を後にした。
(…そもそも、僕に芝居なんて大それたことだよね。原さんのおだてに乗って、ついそんな気になったけど…)
すっかり意気消沈する速水の耳に叫び声が入ってきた。
「ダメだ、ダメだ! 顔は笑ってるつもりだろうが目が笑ってねぇぞ! テメーら最初からやり直しだ!」
(演技の練習してるんだ…)
速水は誘われるように声のする窓辺に近付いた。高い窓だったが背伸びして中を覗くと、そこは壁の片面が鏡張りの広い部屋で、そこで赤い派手なヘビメタ調な装いの女性が自分と同年代の子たちを口汚く指導していた。
「なになに、窓のアレ。覗き?」
劇団員たちに気味悪がられてるとも知らず、速水は窓枠にしがみ付いて様子を窺っていた。
「あー気持ちわるぅ。ちょっと懲らしめてやろうよ」
その頃、劇団を訪れた舞は、練習室の窓辺にへばりつく人影に目を留めていた。
「何だ、あれは?」
それが少年だと気付いた時、彼めがけて数匹の番犬が飛びかかるのが見えた。
「わぁっ!」
バランスを崩し地面から転げ落ちる少年。
彼の悲鳴や犬の鳴き声に、劇団員たちが一斉に窓から身を乗り出した。
「早く犬から離れろ!」
言うのももどかしく舞は素早くヘアピンを武器代わりに手にし駆けつける。
「あ! 瀬戸口君!」
窓からも颯爽と飛び出す青年の姿があった。
――しかし、救助するつもりだった二人だが、唖然としてそこに立ち尽くした。
「わっ、やめ、やめてよ。あはは。くすぐったいよ」
少年が犬に襲われ押さえ込まれていると思いきや、彼は犬にじゃれつかれていたのだ。しかも、犬たちは駆け寄った舞の殺気を感じ、今度こそ番犬らしく唸り出す始末。
「大丈夫だよ、そういきり立たないで」
一触即発の少女と番犬の間に入ったのは少年の方だった。
そして、この事態に、瀬戸口は更に肩を落とした。少女だと思っていた相手がよく見れば少年だったのだから。
「ほら、警戒しなくて大丈夫だって」
少年に宥められ、おとなしくなる番犬たち。
「――そなた、犬と話せるのか?」
そう口にした少女の顔は至って真顔だった。
「話せるっていうか、昔から動物には懐かれやすいみたいだけど…」
律儀に返答し、速水は改めて少女に挨拶した。
「こんにちは。また会ったね」
「なんだ、姫さんの知り合いなのか?」
「会ったのは今日で三度目だな。…む? そなた、手を怪我しているではないか。医務室へ来い。手当てせねば」
窓から落ちた時にでも作ったのだろう。速水は擦り傷程度で大したことではないからと遠慮したが、舞に強引に引っ張っていかれた。
「……済まぬ。私はその手先が不器用ゆえ、どうもこういうことは上手く出来ぬ」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら舞は速水の手に包帯を巻いた。その言葉が謙遜でないことを、そのぎこちない手つきが如実に証明している。しかし速水にはそれが却って嬉しく感じられた。
立ち居振る舞いすべてにおいて尊大な彼女だったが、こうしている彼女は自分と同じ年頃の普通の少女と変わりなかった。いや、普段とのギャップで、より可愛らしく思えたくらいだった。
「あの、ありがとう…芝村さん、だったよね?」
「ああ。私は舞、芝村をやっておる。そなたは速水とかいったな」
「僕、速水厚志です」
「速水、そなたあのようなところで何をしていた?」
「――稽古を見てたんだよな、バンビちゃん。しかし、えらく熱心に覗いてたな。誰かお目当てでもいたのかな。野郎はお断りだが、バンビちゃんは例外にしてもいいな」
「わあっ! 止めてくださいよ! …それに、そのバンビちゃんって僕のことですか?」
瀬戸口に背後から抱きしめるようにのしかかられ、速水は抗議した。
「いやぁ、窓から見た時はてっきり可愛らしいお嬢さんかと思って飛び出してみたが、ま、坊やなら特別だ。だが、やっぱり抱きしめるのは女の子の方がいいな」
「いい加減に離してやれ、瀬戸口」
見かねた舞は無愛想な口調で助け舟を出してやった。
「姫さんのご命令とあらば仕方ないな。あ、番犬はちゃんと戻しておいたから」
「そうか。…で、速水。そなたはあそこで何をしていたのだ? 誰かを覗き見していたのか?」
舞の探るような視線に速水は顔を赤らめた。
「あの、ごめんなさい。僕、こんな劇団に入れたらいいなと思って…でも、僕にはお金もなくてムリだなって。諦めて帰ろうとしたら、練習してたみたいだったから、つい、どんなことしてるのか見たくなって、それで…」
「それだけで二時間も覗いてたのか!?」
瀬戸口は感嘆の声を上げた。
(二時間――…)
舞は思い出していた。
――あの子は『椿姫』の舞台を、ただ一度観ただけなのよ。それなのに、あの長時間の舞台のセリフを一言一句見事に間違えず、キャストの細かな仕草まで丸暗記してしまっているのよ。
あの原の言葉と相まって、舞はしばし物思いに耽った。
「――我らに暇という文字はないはずだが」
厭味な声に舞ははっと我に返った。
「おやおや。これは原のところにいた少年じゃないか」
「あ、こんにちは」
小野寺は速水を一瞥したが、すぐに彼の存在など瞬間に目の前から消去したかのようだった。
「時間だ。行くぞ、舞」
「ああ、すぐに行く。先に車に乗っててくれ――速水、こっちへ来い」
「えっ?」
戸惑う速水だったが、瀬戸口も少女に従うよう目配せしたので、大人しく彼女の後を追った。
「――本田、こやつに練習を見学させてやるがいい」
舞は横柄な口調で指導教官に言った。
「速水。これで堂々と見られるぞ」
「あ…ありがとう! 芝村さん!」
少女の計らいに速水は感激した。
「礼などいらぬ」
そう言って、舞は速水に別れの挨拶をする間も与えず、立ち去ってしまった。
「お許しも出たことだ。中でゆっくり見ていくといいよ、バンビちゃん」
「だから、そのバンビちゃんは止めて下さいって」
言いながらも、速水は瀬戸口に促されるまま、胸を高鳴らせつつ練習室に入った。
「――原の言葉ではないが、おまえがあれほど親切だとは知らなかったぞ」
車中、小野寺は哄笑しつつ、舞に言った。
「芝村たる者、万人に対し公平だ。私はそれを実践しているまでのこと」
「フッ…いいか、舞。我らに許されぬことが二つある。敗北することと、ひとりの人間に心奪われることだ」
「…分かっている」
無表情で頷くと、舞は流れる景色に目を遣った。
「――またいらっしゃたの? ご苦労なことね、芝村さん、小野寺先生」
「倒れたと聞いていたが、もう起きて良いのか?」
「あら。あなた方には私が早く死んだ方が都合がいいんじゃなくて? 私が死ねば、あなた方が欲しがっている『紺碧天女』の上演権が簡単に手に入るんですもの」
「劇作家、尾崎一蓮が書いた『紺碧天女』。ヤツはそなた…いや、月影千草以外に紺碧天女を演ることを認めず、上演権も月影千草に与え死んだ。だが、その月影千草は上演回数三百を目前にして、突然引退してしまった。一蓮の遺志を継ぐ資格を失ったと言ってな。以来『紺碧天女』は演劇界幻の名作となってしまった――」
舞は悠然と腰掛け微笑む原を真っ直ぐ見据えた。
「しかし、未だに解せぬ。あの資格喪失の理由、あれはなんだ。“肌が曲がりはじめたから”などというのが理由になるのか? 大体、そなたのことだ。人一倍、美容にも気を配っていたのだろう? 引退した今ですら、見たところ、現役の頃とそう変わらぬのに」
「あら。ふふ。嬉しいことを言ってくれるわね、芝村さん」
気を良くしたように更に魅惑的な笑みを見せつつも、原は言った。
「――そうね、でも私は天女を演じるには、もう女の肌になり過ぎてしまったのよ」
「女? そなたは元から女ではないか」
「私、あなたのそういうところは好きよ。可愛くて。ふふ」
「我らには冗談という言葉はないのだよ、原君。そのような戯言に付き合う暇はない」
悪戯っぽく微笑む原に、小野寺は不快そうに遮った。
「ともかく、あのようなふざけた理由であっさり引退し、行方を晦ましたそなたを総力挙げて、ようやく探し当てたのだ。原――いや、月影千草。演劇界に復帰してはどうだ? 今はまだ上演権を譲れぬというのであれば、それでも構わぬ。私は今一度『紺碧天女』を上演してみせたいのだ。そなたが再び『紺碧天女』の舞台に立つというのならば大都が全面バックアップしてやろう」
「…私が表舞台に立つことはもう二度とないわ。私では先生は喜んではくれないもの――」
「ならば我らの方で最高の人材を用意する。…そうだな、森精華はどうだ? そなたの妹分だろう」
舞は熱心な口調で提案した。
「だめよ、森さんじゃ。――言ったでしょ? 天女を演るには完璧な玉肌が必要なの。私でも無理なのに、子持ちの森さんじゃ務まるはずないのよ」
「肌がどうしたというのだ! 多少の粗などいくらでもごまかせるであろう?」
人を食ったような答えに舞も小野寺も納得出来るはずもなかった。
「いいえ、天女はあなた方が思う以上の資質を要求される役柄。ほんの少しの妥協も許されないのよ」
毅然と原は言い切った。
「……でも、そうね。あと少し待ってくれないかしら?」
「何?」
「今の演劇界には紺碧天女を演れる女優はまだいないわ。だから、唯一、天女の真実を知る私がこの手で育ててみせようと決心したのよ。私が姿を隠していたのは、そのための演劇研究所を開く準備と、天女に相応しい人物を見つけ出すため。そして、ついに見つけたのよ…!」
「何だと?!」
「研究所は来月にも開く予定です。多くの申し込み希望者もいるわ。劇団5121とはライバルになりそうね」
「しかし、原。そなたが見つけたというその人物が見込み違いだったらどうするつもりだ?」
「そうね…。その時は上演権を譲ってもいいわ」
あっさりそう言う原の顔には揺るぎない自信にあふれていた。
「――それにしても、一体どこの誰だというのだ?」
「今に分かりますわ、今に――!」
小野寺の質問に原は高笑いを噛み殺した。
これ以上、ここにいても無意味だと悟った舞と小野寺は今日は辞することにした。原の自信満々の態度は気にかかるが、しかし、まだ打つ手はあるはず。ならば、さっさと帰って作戦会議の準備でもした方が得策だと判断したのだ。
「……ここへ来る前に、5121で先日ここで会った、あの速水という者に会った」
去り際、ふと舞は原に切り出した。
「え?」
原の片眉が一瞬上がった。
「――あら。何をしてたのかしら?」
しかし、原は次の瞬間には何でもない表情を作って訊いてきた。
「5121に入団希望してやって来たそうだが、そなたの研究所には入れてやらないのか? そなたが面倒見ると言っていただろう? …いや、まぁ、私にはどうでも良い話だが。今日は帰るが、私は諦めたわけではないのでな」
「何度来られても私の気持ちも変わらないわよ。…お父様によろしくね」
原は客人を見送ると、途端にその表情を苦々しい色で染めた。
「……5121に行ったですって? 一体どういうこと!?」
原は部屋の中を苛立たしげにぐるぐる歩き回った。
「ああ、もうっ。何のために味のれんをクビにしてもらったのか分からないじゃないの! 若宮君は何をしてるのかしら?!」
事と次第によっては、ゆっくりたっぷり、とろとろなんてものじゃ済まさないんだから、と息巻きながら、原は若宮が帰るのを待ち構えるのだった。