手元の資料から視線を上げ、窓の外を見遣る。
「――なるほどね…」
黒衣の美女は我知らず、そう呟いた。
一世を風靡したかつての名女優が現在いたくご執心の人物に関する身辺調査結果。そこに示されてしたのは、思い寄らない結果――いや、本当のところ、薄々気付いてはいたのだろう。彼を見ていれば、それは自ずと生ずる疑問だったのだから。
速水厚志。
原が紺碧天女の後継者として目をつけた少年。演劇経験はほぼ無きに等しいと本人は言っていた。強いていうなら、幼少時代のお遊戯会だとか、一人芝居の真似事を友人に見せるだとか。演技とは到底言えぬ程度しかないと。
しかし、彼には荒削りながら、確かに原石――それもとんでもなく希少価値の高い――を予感させる才能が垣間見えた。
その才能を育てるべく、少々策を用いたりもして、見事、少年を劇団つきかげにスカウトしたのだ。
こうして彼を掌中に収め、原はようやく己の見当違いに気が付いた。
それは訓練が始まってすぐに判然とした。
「あめんぼあかいなあいうえお、うきもにこえびもおよいでる――」
お馴染みの発声練習。中でも一際速水の声が響いていた。
“月影千草”の威光は凄まじく、入所希望者は多かったが、いわばこの研究所はダミー。
世に役者を輩出するためだけの劇団なら、大都芸能運営の劇団5121を筆頭に数多ある。単に役者になりたいというならば、そういうところへ行けば良い。だが、原の目的は紺碧天女育成に他ならない。世に優れた演技者が多く出るのは喜ばしいことだが、金銭的にも精神的にもそこまで広く手を掛ける余裕は彼女にはなかった。
そこで、現時点から研究生の人数をかなり絞って臨むことにしたのだ。
壬生屋未央以来の天才子役との呼び声も高い、感性抜群の少女、東原ののみ。
似非関西弁を操る明るいムードメーカー、加藤祭。
見た目も言動も時代錯誤なヤンキー風だが、ひとたび舞台に立てば、豪快な存在感を放つ、彼らのリーダー格、田代香織。
そして、原が最も期待を寄せる、ずぶの演劇素人少年、速水厚志。
厳選された研究生の中でも、この四人は特待生として扱われることになった。
特待生の彼らは授業料も免除ならば、寄宿生として原邸に住まいし、他の研究生たちとは比べ物にならない、まさに朝から晩まで芝居漬けの生活を送っていた。
そして、今も彼らは劇団での稽古とは別に、原直々の指導を仰いでいるのだった。
(なかなか出来てるわね――)
速水の声がよく通るのは、何も彼がひとり異性だからというわけではない。その声量はきちんと腹式呼吸で発声されている証だった。腹式呼吸は演技の上では基礎中の基礎だが、素人には意外と出来ないものなのだ。
原は美しい顔をふっと和らげ、そして速水の腹部に鋭く拳を見舞った。
「――ッ!!」
予想外の急襲に咽る速水。
「いいこと、皆。か弱い女のパンチなんか跳ね返せるくらい、しっかりとした腹式呼吸を身につけること。でなきゃプロにはなれないわよ」
あまりの実践的教育に思わず青ざめる一堂。
「返事は? …全く、私程度の腕力じゃ大したことないでしょう。ナイフでも突き刺したわけでもあるまいし」
「は、はい…」
「声が小さい!」
「はいっっっ!!」
今学んだとおりに腹の底から返事する四人。
「よろしい。では、発声はこの辺にしておきましょう。次は簡単な実技にしようかしら」
恐怖に顔を引き攣らせ、泣く寸前の東原の姿を見て、原はこう提案した。
「……そうね、じゃあ、皆、笑ってみて」
「ぎゃははっ」
「あははっ」
「えへへ」
少女たちは笑い声の出し方にこそ違いは見えたが、一様に腹を抱えて高らかに笑い出した。
だが、ただひとり、速水は頬に笑みを浮かべるに止まっていた。そう、彼お得意のぽややんとした、あの顔だ。
それを見た原の瞳が光る。大笑いしながら少女たちもまた、それぞれ、少年の反応を不思議に思った。
「はい、そこまで。……では次、釘を踏んだ様子を演ってみて」
「いってぇっ」
「あいたっ」
「いたぁいっ」
これも先程と同じく、少女たちはそれぞれ大仰に痛がって見せるのだが、速水は首を傾げ、足の裏を眺めるだけなのだ。
(――!)
少女たちは彼のその素振りに愕然とした。
「――田代さん、加藤さん、東原さん、あなたたちの反応はそれぞれの個性も出ていて、なかなか面白かったわ。でもね、あなたたちも気付いたわよね?」
少女たちは青ざめつつ頷いた。
原は笑えとは命じたが、笑い方そのものに指定はしていないし、釘を踏んだとは言っても、足に刺さったとは言ってない。その微妙なところを、彼女たちは速水の演技によって気付かされたのだった。
「例えば笑うと一口に言っても、その演じ方は何通りもあるということを、くれぐれも忘れないように。それを多く使えるようになればなるほど、あなたたちの演技の幅もぐっと広がるのよ」
「はい!」
「あら、もうこんな時間。そろそろ夕食にしましょうか。着替えたら食堂にいらっしゃいね」
「……おいおい、飯は?」
育ち盛りの四人はまだ整わない食卓を見て落胆を隠せずにいた。
「もうすぐ並ぶわ。皆は何が食べたい?」
「あン? そうだなぁ、俺は肉かな。ステーキがいいぜ」
「うちはたこ焼き…ってアカンアカン、ここはお寿司とか? とりあえず庶民の食べモンとは違う豪勢なヤツがええわ」
「えーとねー、うーんとねー、ののみはちいさいおべんとうがたべたいです」
「えっと…じゃあ、僕はコロッケ定食」
「はぁ? あんたら、こんな豪邸でお弁当にコロッケ定食って! もっと高級なんにしたらええのに」
「えっとね、だったら、ののみ、ウサちゃんリンゴと、さくらんぼとクリームがのっかったプリンがつくとうれしいのよ」
「僕、高級料理とは縁がなかったから思いつかなくて…。でも、味のれんのコロッケ定食、安いけどすごく美味しいんだよ」
「――分かったわ。じゃ、パントマイムで今言った物を食べるところを演ってみせて」
「ええっ!?」
「ただ待っていても時間が勿体無いでしょ。さ、演ってちょうだい」
原の顔付きから察するに、演じ終わるまでは到底食事など出来ようはずもなく。特待生たちは言われたとおり、パントマイムで食事する様を演じた。
「田代さん、それじゃあどんなに柔らかい高級肉でも切れないでしょ。加藤さん、あなたは豪勢な食事をしたいんじゃなかったの? なのに、なぁに、その貧相な顔は! 東原さん、そんな暗い顔してちゃ、あなた好みの可愛いお弁当とは思えないわよ」
苦虫を噛み潰したような表情になるのを抑え難かったが、これが済むまでは本当の夕食には有り付けないのだ。何とか気力を奮わせ演じる少女たち。ある意味、どんな練習よりも過酷に思われる。
(ちっ。やってらんねーぜ)
何気なく田代はちらりと斜め前に座る速水を見て、思わず瞠目した。
憐れなる同士――と思いきや、彼は大層旨そうに架空のコロッケに舌鼓を打っているのだ。
「どうしたの、田代さん。ぽかんと口を開けたままで。いつまでも、そんなおマヌケな顔してないで、ステーキを口の中に運びなさい」
「あ――ああ…」
そんな田代を訝しんだ加藤と東原だったが、その理由はすぐに判明した。
「あっちゃん、おいしそうだねぇ」
「うん。だって、おじさんの作るコロッケは最高なんだよ」
「そうなの? えーっと、じゃあ、あっちゃん、おねがいしてもいいですか? ののみのたまごやきと、コロッケはんぶん、こうかんしない?」
「うん。いいよ」
(な、なんて順応力――!)
速水の自然な演技にもたまげるが、すぐさまそれに応じられる東原の能力に田代と加藤は唖然とした。
「――はい。もう結構よ。さ、おなか空いたでしょう? 今夜はちょっと遅くなったけど、ささやかながら速水君の歓迎会を兼ねた鍋パーティーをしましょ。待たせたのは今まで若宮君にかにを捌いてもらってたからなのよ」
「そういやオメーがここに来てまだ一週間も経たねーけど、すっかり馴染んでるよなァ」
「ほんまやなぁ。最初はひとり男の子で、うちらの中で一緒にここで暮らしていけるんかって思てたけど全然違和感ないもん」
「ののみ、もっと、ずっとまえからあっちゃんと、ともだちだったきがするのよ」
「そ、そうかな」
一端の少年として、そう言ってもらえるのが有難いことなのか不甲斐ないことなのか、世間に疎い速水には判断し兼ねた。けれども、ここへ連れてこられた時は、さすがに一抹の不安を覚えたものだった。それを思えば、彼自身、ここでの生活は、なかなか順調に行っている気がした。
「……かに鍋って美味しいけど、無口になるのが難点なのよねぇ」
空腹も手伝って一心不乱にかにの身をせせる少年少女に、原は半ば呆れたように笑った。
「ま、いつもより長く練習させたし、喉を休めると思えばちょうど良いかしら」
「奥様、わたくしがかにの身を取って差し上げましてよ」
「あら、若宮の奥様。それには及びませんわ。奥様にお願いすると、時々殻ごと身が潰されてしますものね」
高笑いしつつ、捨てたはずの奥様ごっこで返せるほど、原の機嫌はすこぶる良かった。が、気掛かりがないわけでもなかった。
「かにって、ほんと美味しいね」
どうやら、かにを初めて食すらしい速水を一瞥し、少々思いを巡らす。
(もしかして、この子は……)
迅速な仕事を信条とする原は、翌日には若宮にも手伝うよう命じ、疑念を晴らすべく、すぐさま調査を開始した。
そうして、そう時を待たずして得た答えがこれだった。
ラボ出身。
即ち、速水厚志の生い立ちについてである。
彼自身から天涯孤独の施設育ちと聞かされていたが、それがラボだとは当初、思いもしなかった。
通称“ラボ”と呼ばれるそこは、言うなれば秘密裏の機関だった。
公にはされていないが、あの“芝村”も関わって、様々な教育、研究が施されているという。
原は速水厚志に関する調査報告書を穴が開くほど読み込んだ。
分かってみればすべてに合点が行くのだった。
彼がそこに入所していた理由も、何故、素人だという割には意外と基礎がなっているのかも。
少年の両親は幻獣共生派の活動家だったのだ。
幻獣共生派――それは大都芸能、いや“芝村”が忌み嫌う前衛芸術集団。
彼らの芸術は多岐に渡るが、どれも一般社会の秩序を脅かすようなところがあり、その悪しき影響力を封じるため、芝村の力でもって表面的には一掃されたのだ。今でも地下では活動を細々と続けているらしいのだが。
速水は、どうやら、その先の掃討作戦にて孤児となってしまったようだった。
(お遊戯会くらいしか、ですって――? まさか、とんでもない…)
原にはもはや唸るしかなかった。
速水の両親は直接的には演劇方面には携わってなかったようだが、誰もがアーティストという中で育ったのならば、自然と習得されたものもあっただろう。現に、彼がその後、収容された施設の実態は演劇研究機関だったのだから。
速水厚志という名も、彼が答えた生年月日も、本当に彼自身のものかすら怪しい。ラボのやり口は噂でしか聞いたことがないが、それでも自分の師より聞いた話や、同じくラボ育ちの東原を見ていれば容易に推測出来る。
幼かった故、速水自身、自覚してなかったのだろうが、幻獣共生派に生まれ、ラボでも生活したとなれば、既にかなりの演技指導を受けた者と見なして差し支えなかった。
原は昂りを落ち着かせるようにひとつ息をついた。
(ここからが本当に正念場だわ…)
例えば、速水と同年代の、現在、最も実力ある役者といえば、迷わず壬生屋未央の名が挙げられるだろう。彼女は生まれついての天才子役として華々しくデビューを飾ったが、しかし、原の見解は世間のものとは少々異なる。
確かに彼女は天才だろうと思う。誰もが羨む、持って生まれた高い技術力。その天賦の才能は弛まぬ努力にも裏打ちされ、日々進化を遂げている。だが、彼女が更なる高みを目指すのなら、それに頼るだけでは決定的に足りぬところがあるのだ。
一方、調教され習得した技術を、無意識のうちに本能のまま最果てなく伸ばせるような、そんな天才。速水厚志という少年はそういうタイプなのではないだろうか。己の才能に無頓着すぎても、それはそれで今後の伸び方に偏りが出るのは必至だが。
「――若宮君、速水君を呼んでくれないかしら?」
速水の才能が後天的な教育の賜物だとしても、それを紛うことなき天性の素質として見事開花させてやることが指導者としての今の自分の最大の課題であり、それ以上に何よりの悲願なのだ。
恩師に報いるためにも、あの男を見返すためにも――
原は人当たりの良い柔和な表情でひょっこり部屋に現れた少年を、滅多に他人には見せない隣室へと招いた。
「うわぁ、すごい数の仮面ですね。…あ、どれも表情が違う…」
「喜怒哀楽、それだけには当てはめられない更に細やかな表情のもの…。役者は数え切れないほどの仮面をかぶらなきゃならないのよ」
「ううっ」
演技の奥深さを見せ付けられ、感嘆とも悲鳴ともつかぬ呻きが少年の口から零れる。
数多く飾られた仮面に圧倒される彼に、原は真剣な眼差しで語った。
「速水君――君は千の仮面を持っているわ」
「千の仮面?」
「他の誰に分からなくとも、私には分かるの。君は何の取り柄もないと思っているかもしれないけど、それが君の取り柄になるわ。君にとって強大な取り柄に――!」
(千の仮面を持つ…? 僕が――?)
速水には原の言葉が今ひとつ実感出来なかった。
ただ分かっているのは、自分がただ堪らなく芝居が好きだということだけ。芝居さえ出来たら何もいらないと思えるほどに。
とにかく何があっても自分を信じ、一歩一歩階段を登って行くだけであり、今はまだその第一歩を踏み出したばかりなのだ。
(――僕も頑張らないとね)
決意も新たに、速水は仮面に見入るのだった。