がらかめ劇場 第七幕  (サホ)

速水はコーヒーを片手に公園のベンチに腰掛けていた。
今日は珍しく練習がなかったのだが、思えば、劇団に入る以前からして、これほど手持ち無沙汰な休日を過ごしたことが今までにあっただろうか。
ぶらりと散歩に出てみたものの、何をするわけでもなく、ちょうど通りかかった公園で休憩することにしたのだ。

「あ…コーヒーより牛乳にすれば良かったかな」
特待生の中で唯一の男だったが、ののみは別として、他の少女たちとの体格差があまりになさすぎた。田代相手ならば、完全に負けてしまっているくらいなのだから。
「すぐには成長出来なくても、せめて体力くらいはつけなきゃダメだよね。役者は身体が資本だし」
しかし、コーヒーのお陰か士気が高まったような気がする。残りを一気に飲み干すと、少年は目の前のうんていに挑み始めた。

「――あれ? バンビちゃん?」

(バンビ――?)

聞き覚えのあるその声――と、いうよりは、特殊な呼び掛けというべきか。
「やっぱり、バンビちゃんじゃないか」
満面の笑みの瀬戸口とは対照的に、速水の顔には困惑の色が浮かぶ。
「その、バンビちゃんって止めて下さいよ」
「おまえさんに似合ってて可愛いと思うけど。ま、そんなことより、こんなところで何やってるんだ?」
「何って…。えーっと、身体作り、かなぁ」
「身体作り?」
「練習は休みだけど、自分から鍛えることも大事かなと思って」
「ふーん。訓練中ってわけか…すると、何か。どこかの劇団に入団したのか?」
「はい。劇団つきかげに拾ってもらえて」
「劇団つきかげ? つきかげ…って、まさか、あの月影千草…!?」
「そうですけど…?」
「あの名女優がついに劇団を主宰したのか! すごいな、そんなところに入ったなんて。良かったな」
「はい。…で、そういう瀬戸口くんは、こんなところで何してるんですか?」
自分とは違い、アイドル出身の人気急上昇中の若手俳優が、あてもなく公園に立ち寄ったりはしないだろう。
「俺はこれから稽古でさ。今度、森精華と壬生屋未央の母娘が共演する舞台の端役をもらったんだ」
「えっ! すごい、そんな舞台が公開されるんだ!」
森精華と壬生屋未央が共演する芝居――それは想像しただけで胸が高鳴るようだった。
「いいなぁ、僕も見てみたいな…」
「見るだけでいいのか?」
瀬戸口は笑い混じりに言った。
「練習だけでいいなら、俺でも見せてやれるぞ」
「えっ、ほんとに!? いいんですか?」
「この時間だと、まだ壬生屋しか来てないだろうけどな。それでもいいんだったら」
「練習でも見られるだけ十分過ぎるよ!」
その思いに偽りはないらしい。
喰うか喰われるかの芸能界。そこを目指すという割には、それこそバンビ扱いされても致し方ない可愛らしい言葉ではないか。
瀬戸口はそんな速水の無欲さに苦笑した。

「――稽古場だけで、こんなに立派なんだ…」
さすが大都芸能制作の舞台ともなるとスタジオからして違うものだと感嘆したその時、速水の視界に少女の影が飛び込んだ。
「社に戻る前に一旦…ん?」
「あ! こんにちは、芝村さん」
「芝村に挨拶はない。…速水――瀬戸口も、ここで何をしている?」
「何って、姫さんもキツイなぁ。これでも俺、キャストに選ばれたんだけど」
「それは判っている。が、こやつは?」
「稽古が見たいって言うからさ。こないだもお許しが出たんだ。今日も別に構わないだろ?」
「見学か? そうだな、そなたなら良かろう」
「じゃ、早速参るとしますか」
「有難う、芝村さん!」
「――舞様、お車の用意が…」
にこやかに立ち去る少年の姿が、舞の目にはやけに鮮やかに映った。
「いや――やはり、もう少し稽古現場を見ておこう」

(余程、芝居が好きなのだな、あやつは……)
その足取りが、逸る心を如実に体現していた。芝居に対する情熱が眩しいほどそこに表れている。そんな速水が舞にはどこか羨ましく思えた。
(ああ、そうか…。私は使命感に囚われすぎていたのかもしれぬな…)
芝村として生きると決めた日から、己の使命を忘れることはなかった。だが、それを果たすことに必死のあまり、大切なことを見失いかけていたのではないだろうか。
(そうだ――観客にとって、芝居とはそういうものであらねばならない。それがあって、はじめて、世に希望とも呼べる感動を与え得るのだ)
速水のあの期待に満ちた表情が改めてそのことを思い出させてくれたようであった。
(そのためには、より上質で確かなものを配給せねばなるまい)
あの一点の曇りもない顔を裏切らぬためにも――
(…そうだ。予定以上に現場視察に時間を割くのは、そのためだ。それ以外の何物でもないのだ――)

だから、断じて口実などではない。
そう自分に言い聞かせなければならない理由を、少女はまだ気付かずにいた。

単なる見学者でしかない速水だったが呼吸を忘れるほど熱心に見入っていた。
(やっぱり、壬生屋さんって上手いなぁ…)
その演技力は大人相手でもひけを取らない。
「練習風景じゃ大して面白くないかと思ったが、バンビちゃんには関係ないようだったな」
「だから、そのバンビちゃんって呼ぶのは止めて下さいよ」
「悪い悪い。つい癖でな。ま、そういうおまえもさ、もっと砕けて話してくれていいぞ?」
「え、でも…」
「俺の方が年長者だけどさ、堅苦しいのは苦手だし」
「そう? …じゃあ、うん、わかった」
「ま、それより、おまえのところはいつも、どんな感じで練習してるんだ?」
「うーん、つきかげ以外のところを知らないからなぁ…。基礎練習以外は先生がその時々でいろんな課題を出すって感じだけど」
「――つきかげ? ねぇ、君、今、つきかげって言ったよね。もしかして月影千草に師事してるの?」
「え、ええ…」
突然の声に速水は驚きつつ頷く。
(耳聡いヤツらだな)
と、瀬戸口は内心舌打ちした。自分たちの話が現場取材に来ていた輩に漏れてしまったようだが、当の本人があっさり肯定してしまっては揉み消しようがないではないか。
案の定、彼らはすっかり沸き立ってしまった。
「まさか、それって月影千草本人が劇団を主宰してるのかい?」
「そうですけど…」
「本当かい? ね、引退してからの彼女ってどんな生活を送ってるのかな? 恋人はいるのかな。あ、実はもう結婚してたりとか?」
「ええっ!? そういうことは僕にはちょっと…」
「じゃあさ、劇団の話を聞かせてよ。月影千草自身が次の天女を養成中なんでしょ!? どんな子なのかな」
「あの、天女って…?」
「おいおい、君、月影千草の門下生でありながら、知らないなんてことはないだろ? 天女といえば、紺碧天女以外に何があるんだ。ね、どんな子が天女候補に挙がってるの?」
「紺碧天女…?」
(紺碧天女ですって――?)
それまで稽古に集中しきっていた壬生屋だったが、その一言に、ようやくこの騒ぎに気が付いた。
(あれはあの時の…)
見れば、先日、劇団5121でパントマイムを演った少年が取材陣に取り囲まれ矢継ぎ早の質問攻撃に遭っているではないか。
(あの少年…つきかげに入ったの…?)
「何のことだか、僕にはほんとに分からないんですけど…」
「――貴様ら、一体、ここへは何をしに来た?」
その凛と通った声に、場が一瞬にして静まり返った。
「稽古の邪魔をするのであれば今後一切の取材を認めぬ。もちろん、言うまでもないことだが、今日はこの舞台の取材に来たのであろう? それ以外の記事を目にするようなことはないと思うが、万が一にもそのようなことあらば、貴様ら、芝村の地獄を見ると覚悟しておくがいい――で、そこのそなた。ここは部外者以外立ち入り禁止だ」
舞はぞんざいに渦中の少年を掴むと、そのまま室外へと自ら連行してしまった。
それは如何にも芝村の末姫らしい行動だったが、しかし、壬生屋の目にはそうは映らなかった。
(舞さん…?)
彼女には、それが少年を庇う行為に思えたのだった。

「――悪い、姫さん。俺が付いていながら」
謝りながら瀬戸口が慌てて二人の後を追ってきた。
「いや、あやつらを入れていたことを失念して見学許可を出した私にも落ち度はある。速水、ここにいては騒ぎが広がるだけだ。今日はもう帰るが良い。送ってやる」
「そんな、わざわざ…僕なら大丈夫ですよ」
「構わぬ。移動のついでだ。気にするな」
「…じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな」
と、言う以外にない速水。原とはまた違うが、しかし、この少女にも人に有無を言わさぬところがあった。
「じゃあ、瀬戸口くん、練習頑張って」
「ああ、またな」

「――月影…いや、原のところに入団したのだな。原のことだ、やはり厳しいのか?」
「どうなのかなぁ…。易しくはないと思うけど…」
「あれは仕事には妥協せぬからな」
そう言って舞は不敵な笑みを浮かべた。
「芝村さんは先生のこと、よく知っているの?」
「いや、直接にはあまり知らぬが、話は昔からよく聞いていたのだ」
「まだ先生が女優を辞める前の頃のこと?」
「そうだな」
「そっか…。じゃあ、芝村さんの方が、僕より女優だった頃の先生のことよく知ってそうだね。紺碧天女、だっけ? さっき、マスコミの人たちに訊かれたけど、僕、ほんとに全然知らなくて」
「今や演劇界の幻の名作『紺碧天女』。その主役、紺碧天女役は月影千草の代表作だ。もっとも、これも話に聞くだけで、私自身は実際にこの目で見たことはないがな」
「へぇ…」
これまで、特に月影千草の存在価値が如何ばかりのものかなど考えたこともなく、少年はただひたすら彼女の指導についていくのみであった。
「幻の舞台か…。その主役だったなんて、先生って、ほんとにすごい女優さんだったんだね…。そんな人に拾ってもらえたなんて、すごく運が良かったんだなぁ」
速水の今更な言葉に舞は思わず吹き出した。
(原が何者かも知らず、演劇への情熱だけを頼りに飛び込んだとは…。しかし、こういう純粋な熱意こそが、原の目に適った所以なのかもしれぬな)
そう思う舞であった。