がらかめ劇場 第八幕  (サホ)

「……なんや、これ?」
配られたプリントに加藤は首を傾げた。
「えへへ。ののみにも、すぐによめるのよ」
「だな。平仮名で、はい、いいえ、ありがとう、すみません――だけだもんなぁ」
半ば呆れたように田代はそれを読み上げる。
「滑舌の練習とかでもなさそうだね」
当然、演劇の素人である速水にもさっぱり見当がつかなかった。
「――皆さん、行き渡ったわね。今日はこれを使って芝居をしてもらいます」
「え?」
そこに記されたのはたったそれだけの単語。芝居が成立するとは思えないセリフ量にざわめく研究生たち。しかし、四人の特待生は先日の練習を思い出した。
たった一言でも、その演じ方は何通りもある。それが芝居だという原の教えを。
「うんとね、きっと、このあいだのつづきなのよ」
「そうみたいやな」
「そう考えると、これ、結構難しいんじゃねぇか?」
「そうだね」
そして、彼らのその予想は外れなかった。
「同じセリフでも、その状況によって様々に変化を出さなきゃいけない。それが演劇というものよ。あなたたちは、この四つの言葉のみを使って、こちらのセリフに上手く応対して下さい。もちろん、不自然な返答は失格です。きちんと会話になってなければ芝居とは言えないから。では、ひとりずつ前で演ってもらいましょう」

「はい」「いいえ」「ありがとう」「すみません」――その四つの言葉しか使えない芝居。
ある者は講師の引っ掛けに思わず別の単語を発してしまったり、ある者はこの限定された条件に、必要以上に惑わされ、一本調子な反応しか返せなかったり、流れにそぐわぬ答えを返したり。
次々と脱落者が出る中、それは起こった。

「――練習中、失礼いたします」

それは聞き慣れない――いや、覚えはあるが、この場には馴染みのない声だった。
研修生たちの視線が一点に集中したが、当の本人は動じることなく原の前に進み出た。

「はじめまして、月影…いえ、今は原先生とお呼びすべきでしょうか? わたくし、かつて先生にご指導いただいておりました森精華の娘、壬生屋未央と申します」
「ええ、もちろん、あなたのことは知っているわ、壬生屋さん。けれど、あなたがどうしてここに?」
「はい。わたくしも演劇を学ぶ者として、是非、こちらの劇団の練習を見学させていただきたいと思いまして。不躾にも突然伺いましたこと、お詫び申し上げます」
「ふふ。思い込んだら一途な森さんのお嬢さんらしいわね。いえ、あなたの方が見事な特攻ぷりかしら? まさか、あなたがいきなりここへ乗り込んでくれるとは思いもしなかったわ」
「も、申し訳ありません」
「あら、責めているわけではないのよ。あなたの見学なら大歓迎だわ。皆への刺激にもなるでしょうし。――ねぇ、壬生屋さん、せっかく来てくれたんですもの。良ければ練習に参加してみない? あなたもただ見てるだけではつまらないでしょう?」
「はい! お邪魔にならないのでしたら、喜んで」
原は手短に練習内容を壬生屋に伝え、最後にこう付け加えた。
「あなたには子供騙しな練習でしょう? そこで、講師の代役をお願いしたいのだけど」
「分かりました。…あの、宜しければ、相手役には速水くんをお願いしたいのですが」
「おまえ、あの壬生屋未央と知り合いだったのかよっ!?」
興奮に任せて田代は小柄な少年の身体を激しく揺する。
「し、知り合いっていうか…覚えてもらってるなんて夢にも思わなかったけど…」
相手は絶大な人気を誇る若手女優。先日の舞台稽古は、こちらが一方的な見学者だったし、あの5121でのパントマイムのことすら、忘れられていても不思議はないくらいだというのに、まさか、その壬生屋未央に直接名指しされるとは。
「――ええ、もちろん、構わないわよ。さ、速水くん、前へ出て」
「は、はい!」

(こうも、うまい具合に話が運んでくれるなんてね――)
緊張した面持ちの少年を原は会心の笑みで見つめた。
この予想外の展開を誰より喜んだのは、原その人なのであった。

「こんにちは、速水くん。先日はうちの団員がとんだ失礼を…」
「いっ、いいえ!」
「本当にお気を悪くなさらないで下さいましね――では、参ります」
一瞬、鋭いとも言えるほど真剣な表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間には実に柔和な物腰で壬生屋は言った。
「まぁ、いらっしゃい、速水くん。さ、中へどうぞ。こちらにお掛けになって下さいまし」
「は、はい」
「本当に今日は良いお天気ですわね。お飲み物は何が宜しいですか? お茶を淹れましょうか? それともコーヒー?」
「…っ」
危うく答えかけて、速水は慌てて口を噤んだ。
「――いいえ」
「遠慮なさらないで。それとも、どちらもお嫌いでしょうか?」
「…すみません」
「ふふ。じゃあ、紅茶などは如何ですか?」
「はい――ありがとう」
「――さ、熱いので気をつけて下さいね。ああ、速水くん、お砂糖はいくつ?」
「い、いいえ」
「ミルクは?」
「いいえ」
「ストレートですか? ふふっ、通でいらっしゃるのですね」
「いいえ」
(気を抜くと、すぐに壬生屋さんのペースに乗せられそうだよ…)
しかし、徐々に硬さが取れてきたらしい。速水の表情に違いが出てきた。
「……ところで、速水くん、ひとつ伺っても宜しいでしょうか?」
「はい」
「あの…ひょっとして、あなた、古武道の経験がお有りなのでは…?」
「いいえ…?」
「そう――そうですか…。いえ、その、あなたの立ち居振る舞いに、もしや、と思っただけですので」
(わたくしったら芝居の最中に何を馬鹿なことを訊いているのかしら…)
今は彼の演技力そのものと相対しているのだ。
<万物の精霊>の使い手であるかどうかを確かめることよりも、芝居にこそ集中しなければならないというのに。
「…けれど、きっと、あなたは筋が良いとお見受けいたしました。呑み込みが早そうで」
「あ、ありがとう…」

「――すごいな、速水くん。結構長いこと続いてるで。これ、最長記録ちゃう?」
「しかも、あの壬生屋未央相手にだぜ、へへっ!」
「ののみもとってもうれしいのよ」
(見込んだだけのことはあるわね――けれど、私を満足させるには、まだ甘い…)
原は腕組みし、成り行きをじっと見守った。

(――速水くん…これほど、そつなくかわすとは…。やはり、彼を演劇初心者とだと侮ることは出来ない…)
予想以上に相手は手強かった。
(このまま続けては却って彼を見くびることになるかもしれない…ならば――)
ともすれば反則にも成り兼ねないが、壬生屋は敢えてその賭けに打って出ることにした。
「――お代わりは如何です?」
「ありがとう」
「ああ、そうだわ。何か音楽でもおかけましょうか?」
「はい」
「速水くんはどんなものがお好きですか? いろいろ揃えてあるのですよ」
「――!」
(どうしよう…。ここで“いいえ”と答えるのはおかしいよね。音楽嫌いなら最初から断ってるだろうし…。この四つの言葉じゃ答えられない…そうだ、答えられないなら…!)

「……」
腹を括り、速水は苦笑いを浮かべ首を傾げて見せた。

「おっ! やるな、速水。表情で答えたか」
「しかも、あの顔、えらい速水くんらしい答え方やで。よう、あんな顔してるもんなぁ」
「それに、あっちゃん、いまも、うそはついてないのよ。あっちゃん、あんまり、おんがくなんてきいてないのよ。だから、きらいじゃなくても、こたえられないのよ」

「音楽のことはあまりご存知ではないのですね」
「…すみません」
「まぁ、そんな謝ったりなさらないで。でも、お嫌いではないですよね? でしたら、何をおかけすれば良いかしら…」
困ったような表情を浮かべ、壬生屋は速水の反応を窺った。彼女は速水の策を逆手に取って切り返してきたのだ。
(…っ! これで何か答えないわけにはいかなくなった…!)
延々と互いに顔を見合わせてばかりいては、会話ではなくなる。
もはや同じ手は通用しない。
一度目は誤魔化すための小細工だった。だが、二度目がそうでないのなら――

(これは――!)
彼の次の動作に原は口の端を上げ、壬生屋は目を瞠った。

「突然、立ち上がって何する気なんやろ」
「あれってマイムじゃねぇのか?」
「うん。くわしくなくても、きっと、じぶんでCDえらびたいのよ」

(敵に塩を送ってしまったとは――!)
壬生屋は顔色を失い、速水を見た。

(――壬生屋さんの家なら、きっと、ほんとにいろんなCDがあるに違いないよね。オーソドックスにクラシック全集とか。芸能一家だし流行の音楽にも詳しいのかな? あ、でも、結構古風なお家柄みたいだし、演歌とか邦楽とか…うん、きっと僕が聴いたこともないようなのもいっぱいあって…)

数あるCDの中から、少年がどの一枚にしようか楽しげに選んでいる様子が、ありありと見て取れた。
それは、即興ながらも単なる会話劇の域を超えた実に芝居らしい深みを与える演技であった。

彼がどう応えるか期待はしていたが、しかし、この、それ以上の結果に愕然とする壬生屋。
そんな彼女に向かって、速水は嬉しそうに手を差し出し、こう言った。

「――はい!」
「――っ!!」

「――そこまで。今日の練習はここまで。壬生屋さん、速水くん、お疲れ様でした。二人ともなかなか良かったわよ」
「いえ…」
それが謙遜ばかりではないことを壬生屋のその表情が実によく物語っていた。
「速水くん、あなたが、こちらに入団なさったのがよく分かった気がします。…あなたとはまたお手合わせ願いところですね――そう、次は舞台で。先生、今日は本当に有難うございました」
「いいのよ。あなたも今度の舞台、頑張ってね」
「はい! それでは失礼いたします」

(速水くん…やはり只者ではなかった…。そう、彼には、どこか人の目を惹きつけてるものがある…)
それこそ、<万物の精霊>をも使いこなしてしまいそうな、そんな底知れない可能性を見た気がした。
(さすがはあの月影千草の門下生になることを許されただけのことはある…。それとも、それほどの実力も持ち主だからこそ、自ら指導してみたいと思われたのかしら?)
次期紺碧天女の候補を養成するために作られた劇団――
(つきかげには彼以上の女優が他にいるというの…?)
速水より演技力のある役者は今までにも数多く見ている。が、しかし、これほど、気にかかる人物がいただろうか。
あの少年に比べたら、不思議と、次期天女候補も恐るるに足らずと思えてならない壬生屋であった。

――数日後、原邸にて。

「――早く、スターを早く輩出してもらわんと。うちの主力商品になるくらいのな」
(主力商品、か――売れさえすればいいんだろう? 役者本人ではなく、その関連商品が)
内心、毒づきながら若宮は応接室の片隅に控えていた。
「…来月、旗揚げ公演をと考えています。そこで、また援助をお願いしたいのですが…。もちろん、これをつけて」
「欲しいのは紺碧天女の足袋だ。月影千草の靴下とはいえ、あの足袋の価値とは比べ物にならん。おまえの靴下ならば、最低もう一足は欲しいところだな」
「ならば、これを持って行け! これ以上、千草さんの靴下が出回っては、それこそ価値が下がるだろう!」
耐え兼ねた若宮が乱雑に懐からそれを差し出す。
「ちょっと、やだ、なぁに、これっ!」
「見てのとおり、俺のビキニパンツです!」
「…フン。まぁ、おまえもその昔は、特に軍隊物を演らせたら天下一品の名脇役だったな。いいだろう、物好きなマニアもいるからな。金のことは心配するな――ではまた連絡する」
歯噛みしつつ、男が立ち去るのを見送る若宮。
引退したはいえ、あの“月影千草”が、闇市場に幅を利かせる胡乱な輩に援助を求めなければならない、この窮状は見るに忍びなく、また、それを救う術を持たぬ己の不甲斐なさが彼には堪らなかった。
そんな彼を原は労わるような目で見た。
「…仕方ないわよ。こうでもする以外、他に方法がないのだから」
「ですが、千草さんの…いえ、素子さんの靴下がヤツらの餌食なるのは我慢なりません!」
「だからって、あなたのアレもどうかと思うけど…。まぁ、そんなことより、これで資金調達も出来たし。これから忙しくなるわよ」
眩しいばかりの笑顔を向けられ、憮然とした若宮の心も自然と励まされるのであった。