珍しく、HRに間に合う時間に起きた。
校門前でだらしなくあくびを一つ。
桜が綺麗だ。せっかくだから、屋上で朝寝でもするか。
そんな無理やり理由後付なことを考えながら見事な枝振りを見上げる視界の隅を、何かがよぎった。
おやっと見やると、俺の腰ほども背がない小さな女の子がちょうど横を走り抜けるところだった。
赤い袴に白い胴衣、膝裏まで届く黒く豊かな髪が懸命に走る足に跳ね上げられて、背中で踊る。その波間にちらりと見えた赤いリボンも印象的だった。
我ながらこんな時だけは反応が早い。
二、三歩程で追いつくと腕を伸ばしてその小さな体を内にすっぽりおさめ、彼女の進行を阻んだ。
「ちょっと待った。小さなお嬢さん」
彼女は心底びっくりしているのか声も上げず、息を呑んで背中を丸めた。
ん?髪の毛が膨らんだような・・・気のせいか?
怖がらせたいわけではなかったから、腕をすぐさま緩める。
そして、俺は尋ねた。いや、尋ねようとした。
「どこから迷いこん、うごっっ!!」
待て待て、こういう時は誰だって情けない悲鳴を上げるはずだ。
俺は彼女の強烈な頭突きをくらって後ろによろけた。
その俺の手首をとってそのまま地面に叩き伏せる。
俺が見物人だったら口笛を吹いていただろう。それは見事な手際だった。
そうか、さっきのは息を呑んでいたんじゃなくて、呼吸をとっていたんだな。
あー、こういうのなんて言うんだったか。古武術っていうヤツか。
とっさに体を後ろに引いていなかったら、まともに顎にくらって脳震盪を起こしていただろう。
「不埒な方。なかなか武道をたしなまれるようですね」
軽く咳き込んで身を起こす俺に、彼女が言う。
身のわりに高圧的な物言いだったが、澄んだ綺麗な声には逆にそれがあっているように感じた。
「瀬戸口隆之」
「は?」
制服に派手についた土埃を払いながら俺が言ったのに、彼女はぽかんと口を開けたような気配を返してきた。
「俺の名前。次のセリフは『人にものを尋ねるならば、あなたからまず名乗りなさい!』かな~と思ってな。先回り。
――『不埒な方』っていう響きもなんかソソラレるけど、な」
いつものように余計な一言を付け加え、そこで顔を上げる。
にっこり彼女に笑ってみせようとして、――俺は失敗した。
最初に前髪を後ろでまとめて全開状態にした額が目に飛び込んできた。
艶やかな黒髪に縁取られた輪郭は殻を剥いたゆで卵のように柔らかそうな線。
そして、下から睨みつけるその大きな瞳。
それは彼女を構成する色の中では異彩ともいえる、青だった。
瞬間に目を奪われて、どくんと心臓が脈打つ。
ただの青ではない。凛とした光を秘めた意志により輝く青。
言葉がでなかった。俺が永遠に失ったはずのものがそこにあった。
「嘘だろ?」
「やはり、頭を強く打ちましたか?」
動きを暫く止めた後、呆然と自分を見つめてやっと呟いた俺に、彼女は怒った表情から一転して、心配げに眉をひそめた。
ああ、この眉の形もあの人にそっくりだ。
(よく考えてみれば頭を打ったのは彼女のせいなんだが。まあ、そんなとこも今にして思えば彼女らしい。)
気の遠くなるほど昔に交わした約束の言葉が、声もそのままにどこからか聞こえてくる気がした。
――あなたが心配。
だから、私、生まれ変わったらすぐにあなたに会いに行くわ。
きっと見つけてね。
だが彼女は、失くした恋人の似姿というにはあまりにも強烈で。
失敗した笑みの欠片を口の端にのせて、俺は彼女に改めて名乗った。
「俺は瀬戸口隆之。よろしく、勇ましいお嬢さん。できれば、君の名前を教えてほしいんだが・・・」
俺の言葉に背筋を正した彼女は、躊躇いも無くまっすぐに応えた。
「本日より、こちらでお世話になります。壬生屋みおと申します。
若輩者ですが、どうぞよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます」
桜舞う風に彼女の長い髪がさあっと流れる。
俺は彼女の視線を受け止め、よろしくともう一度、心からの笑みを向けて右手を差し出した。
長く待った君に、やっと会えた。でも、これはどういう趣向かな。
まったく悪戯好きの君らしい。それとも、俺を試してる?
それじゃあ、俺も賭けようか。
君を、いや君と俺がどれだけ幸せになれるか。
こうなると、君に会うための年月も悪くなかったと思えるから現金なものだ。
思ったよりも俺は随分とヒトだったらしい。
この出会いから、俺の転校生壬生屋みおへの猛アタックがはじまる。
彼女にしてみれば、迷惑なだけだって?
でも、もう俺は手放す気はないんだ。
――彼女も、彼女のための幸せも。